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代官坂 中華街
山手80番館遺跡 元町
旧居留地48番館跡 フランス山
■山手外国人墓地
生麦事件の墓所
港崎遊郭跡
馬車道



代官坂

代官坂は本来は「箕輪(みのわ)坂」という名でした。
その坂の途中に横浜村名主石川徳右衛門の居宅があったため、
「代官坂」と呼ばれるようになったといわれます。

 石川徳右衛門は日米和親条約締結の際に応接場の設営や食料、設備などの一切を取り仕切り、
1854年(嘉永7年)にペリーが上陸して住民の暮らしぶりを視察した際には徳右衛門の
屋敷を訪れ、そのときの様子が「ペルリ提督日本遠征記」に記されています。
その後、徳右衛門は横浜町惣年寄となって町政を担いました。

 横浜開港後の代官坂は関内の外国人居留地と山手の居住区とを往来する
外国人たちを相手にした商売によって
元町商店街は発展していったという歴史があります。
技術を外国人たちから学びながら、外国人の顧客を相手に元町の職人たちは
洋服の仕立てや西洋家具の製作、ベーカリーといった西洋文化に基づく
サービス業を始め、それが現在の元町商店街の礎になりました。
代官坂プレート
代官坂にある現在の石川家
石川徳右衛門

山手80番館遺跡

横浜に現存する唯一の震災前の外国人住宅の遺構です。
明治末から大正初期に建てられたと思われ、
住宅の間取り図と発掘された美しいタイル2枚の展示(写真中央)があります。

碑文

この赤レンガの構造物は、関東大震災前の異人館遺跡で、震災当時はマクガワン夫妻の
住居となっていたところです。
 この一帯は、かつての外国人居留地の中心地で、多くの外国人住宅のほか、
学校・病院・劇場・教会などの西洋建築がたちならんで「異人館のまち」をつくっていましたが、
今日なおその面影をそちこちに残しています。
 本遣跡は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていましたが、
床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大地震による被害状況を物語っています。
現在、地下室部分を残すだけですが、浄化槽をも備え、
古き良き横浜の居留外国人の華やかな暮らしぶりをうかがいしることができます。
 両わきのタイルは遺構から出土したものを複製しました。

 昭和60年3月 横浜市緑政局 横浜開港資料館

山手80番館遺跡
山手80番館遺跡
80番館の間取り

旧居留地48番館跡

イギリス人貿易商であるJ.P.モリソンが、明治中頃から昭和初期にかけて、
 日本茶の輸出や、ダイナマイト等の外国製品の輸入販売をしていた、モリソン商会の店舗建物です。
 西洋の建築様式(手法)を取り入れた建物としては、中区大芝台の地蔵王廟より遡ること9年、
まだ居留地制がしかれていた時代に建てられた、横浜市内最古の洋風建築物です。
また、全国的にみても数少ないとされる、フランス(フランドル)積みの工法によることから、
 建築史的にも貴重な遺構であるといえます。

 関東大震災で建物の2階部分が崩壊し、その後の区画整理で1階の3分の1ほどが失われながらも、
 不思議なことに、建物は残存部分を修復し、使用され続けました。
その後、所有者はヘルム兄弟商会に変わりますが、この期間の建物の用途は不明です。
ただ、建物内部に水回り工事を施した跡があることから、同敷地内にあった、
ヘルムハウスアパートメントの管理人室として使われていた可能性が考えられます。
 昭和53年からは県の所有となり、平成4年までは神奈川県警が使用していましたが、
 当遺構の重要性が認められ、県文化財保護審議会からの答申に基づき、
 平成13年2月13日付け、神奈川県指定重要文化財に指定されました。

所在地:横浜市中区山下町54
構造:煉瓦造1階(元々は2階)
設計:不明(フランス人建築家関与の可能性あり) 施工者:不明
建築年代:明治16年
旧居留地48番館
青色部分が現存
建物内部

山手外国人墓地

横浜市中区山手町にある山手外国人墓地の始まりはペリー来航時に遡る。安政元年(1854年)、
日米会談のため横浜に来航した艦隊のミシシッピー号の水兵のウィリアムズが墜死し、
ペリーが要求した「海の見える地」という条件にも合う、現在の元町にあった増徳院の境内に埋葬された。

しかし、日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、
ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に玉泉寺に改葬されている。

 安政6年(1859年)、アメリカなどと結ばれた修好通商条約によって、下田に代わって横浜が開港した。
それから間もなく、2人のロシア艦隊員が何者かに殺害され、増徳院境内に埋葬された。
その際、幕府は石塔や囲いの設置をロシア政府に約束し、
土地が狭かったので隣接する農民の畑も買収した。

 翌、安政7年(1860年)には、オランダ人船長と商人の2人が殺害され、やはり増徳院境内に埋葬された。
しかし、元々、増徳院境内には日本人の墓もあったが別の墓地に移されることになる。
さらに翌年には、とかく評判の悪かったさる英国領事が、病死したイギリス人水夫を別の場所に
勝手に埋葬して問題になった。そこで、幕府は約5300平方メートルの土地を柵で囲って
外国人の墓域に定めた。その後、拡張を重ね、明治11年(1878年)までに現在の墓域が確定した。

 実は、横浜外国人墓地は現在まで、外国人に無償で貸与されている。幕末に有料化が検討されたが、
攘夷派浪人の凶刃によって不慮の死を遂げた外国人が多かったこともあり、
国際親善の観点から無償貸与と決まった。

 幕末には、幕府が土地や柵を造成し、外国領事団に貸与する形式だったが、
明治2年(1869年)に全ての管理を外国側に委ねることになり、
明治3年(1870年)に外国領事団から居留外国人の代表で作る管理委員会に管理権が委譲された。
この委員会は明治33年(1900年)に、財団法人横浜外国人墓地となり、現在に至っている。

 
山手外国人墓地

1861年(文久元年)山手の
横浜外国人墓地が手狭になったため
設けられた。第二次世界大戦後米軍に
接収され、アメリカ軍兵士と日本人女性との
間にできたものの、遺棄された嬰児が多く
埋葬されている。
現在160基ほどが確認されている。
分っている範囲で1200人が埋葬されている。
関東大震災の被災者も含まれる。
1873年(明治6年)横浜外国人墓地に
埋葬されていた華人、華僑が
現在地へ移された。 元々、
中華義荘は、故郷中国へ棺を
送還するまでの仮埋葬の場であったが、
時代とともにここで永眠する人が
増えていった
太平洋戦争で捕虜となり、
日本で亡くなった約1800人が
葬られている。横浜市児童遊園地の
隣にあり、とても静かで美しい。
深い林の中には芝生が植えられ、
整然と墓碑が並んでいる。
根岸外国人墓地
中華義荘
英連邦戦没者墓地
横浜には4つの外国人墓地があります。

生麦事件の墓所

文久2年8月21日(1862年)薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、生麦村を通過の際、
行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人チャールズ・レノックス・リチャードソンら4人を殺傷した事件。
(1名死亡、2名重傷)リチャードソンが死亡し、ウィリアム・マーシャルとウッドソープ・C・クラークは
深手を負いましたが脱出でき、マーガレット・ボロデール夫人は帽子と髪の一部がとばされただけで無傷でした。
事件後もマーシャルとクラークは横浜で引き続き商業に従事し、後年、横浜で没しています。
ボロデール婦人は事件後、間もなくイギリスに帰国しましたが、
娘を出産した際に難産もあって亡くなっています。

3人の墓石です。手前に横たわっているのがリチャードソンで、左奥がマーシャル、右奥がクラークです。
従来、生麦事件の犠牲者三人の墓は離ればなれになっておりました。
老朽化したので平成18年、修復すると同時にリチャードソンの墓の傍に
マーシャル、クラークの墓も集められました。
生麦事件被害者墓所
名前付きの配置板
生麦事件の現場

港崎遊郭

 1859年(安政6年)11月10日に関内の太田屋新田(後の横浜公園)に開業しました。
 幕末期、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、
 また、オランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより開業。
 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。

横浜公園の日本庭園部分にはかつての港崎遊郭(みよざきゆうかく)にあった
岩亀楼(がんきろう)の灯籠が 保存されています。
岩亀楼は港崎遊郭で一番大きな遊女屋でした。
横濱公園由来の碑
港崎遊郭があった場所
岩亀楼の灯籠

馬車道

馬車道は、慶応2年(1866)の大火後、外国側の要求で吉田橋からフランス公使館前(開港場)までの
直線道路が造成され馬車道と呼ばれるようになりました。そして吉田橋に関門が設けられました。
関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、
その関門は明治4年(1871年)に廃止されました。

現在の馬車道は煉瓦で舗装された道や実際にガスを燃やしているガス灯の街路灯など当時の
面影を感じさせる物が設置されております。また、
関内には近代洋風建築(大半が昭和時代建築)が残っており、この馬車道に何棟か残っています。

馬車道沿いには「馬車道商店街」が軒を連ね、みなとみらい線の開業によって「馬車道駅」が設置され、
これに合わせて商店街を駅近くまで延長、整備されました。また、馬車道商店街(周辺)では
「馬車道協定書」という景観を守り地域をより良くするため街造りの協定が結ばれています。
当時の馬車
馬車道祭りから
現在の馬車道
街灯の柱
通りのタイル

中華街

外国商人たちは、日本人との仲介役を務める買弁として、あるいはコック等の使用人として
多数の中国人を引き連れてきた。1867年には660余人を数え、すでに西洋人を上回っていた。
明治2年には1000人を超えました。

独立して営業する人達も早くから存在した。
旧横浜新田の造成が進むとともにそこは進出し、中華街が形成されていったと思われます。
明治10年の記録ではすでに1140人中、半数近い約500人が
この地域にあたる130番〜160番代に集住していた。

慶応3年、59番に中国人の集会場が設けられ、中華会館と呼ばれるようになる。
明治6年、140番に移転するが、ここに関帝が祭られ、華僑たちの生活の中心となった。
これが関帝廟の起源です。
中華街本通り
関帝廟
明治末期の中華街本通り

元町

1859年の横浜開港までは半農半漁の村落であったが、1860年2月の横浜開港に伴って立ち退いた
旧横浜村住民がこの地に移住したことで「横浜元町」と呼ばれるようになる。
明治維新の頃には外国人向けの商店街として栄え、「元町」と改称された。

開港後の山下町に山下居留地が、山手に山手居留地がそれぞれ設けられ、
両地区を結ぶ場所にあった元町通りは、居留者らが日常的に多く行き交うところとなり、
外国人を相手にした商売が盛んに行われるようになる。
(漁業権もはく奪され作徳料という補償金を元手に商売を始めた)

特に職人の町として、パン、西洋菓子、洋服仕立、クリーニング、絵葉書店、写真館、
元町家具など、賑わっていました。
大正時代の元町
元町のシンボル
元町家具店・ダニエル
現在の元町商店街
キタムラ K2
ウチキパン

フランス山

「フランス山」は港の見える丘公園の中の一区画です。
フランス山は幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところで、
そこから「フランス山」の名が付いています。
平成14年度から平成16年度にかけて段階的に整備が行われ、
かつてのフランス軍駐屯地、フランス領事館の跡地としての歴史を偲ばせる
庭園として再オープンしています。

フランス軍駐屯
 江戸時代末期、1862年(文久2年)に起きた生麦事件が象徴するように、
攘夷派の浪人などによる外国人殺傷事件が少なくなかった。
これを受けてイギリスとフランスは自国民の保護を名目に、
横浜居留地への自国軍の駐屯を決定する。幕府もこれを認め、1863年(文久3年)には
フランス海兵隊が横浜に到着、山手186番に駐屯を開始した。現在の「フランス山」である。

3000坪ほどの駐屯地には三棟の建物が日本側の費用負担で建てられ、
駐屯したフランス軍兵士は陸軍20名から始まって、その後は300名以上を数えたという。

一方、イギリス軍はフランス軍到着の翌年、1964年(文久4年)になって本格的な駐屯を開始、
こちらは現在の横浜市イギリス館のあたりから岩崎博物館にかけての地域に駐留している。
ちなみにイギリス軍が駐留した地域は「トワンテ山」と呼ばれるが、
これは駐留したイギリス軍の第20連隊の「トゥエンティ」の発音が由来であるらしい。

フランス軍が撤退した後20年後に「フランス山」下方にフランス領事館が、
上方の区域にフランス領事官邸が完成した。
しかし、その領事館も領事官邸ともども1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊してしまう。
 震災後、1930年(昭和5年)に領事官邸が、旧領事官邸跡に再建されている。
その領事官邸は戦後の1947年(昭和22年)、不審火で焼失してしまった。
 時を経て1971年(昭和46年)横浜市がフランス山をフランス政府から購入、
公園として整備し翌1972年(昭和47年)開園している。
平成14年度から平成16年度にかけて再整備が行われ現在に至っています。
 
フランス山と風車の説明
当時のフランス山
フランス山(マリンタワーから)
領事官邸(右)と風車
フランス軍兵舎
フランス山煉瓦井戸



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