横浜バプテスト神学校発祥の地 居留地の図書館
幼児教育 居留地消防隊
トマトケチャップ発祥の地 テイラー
マッチ ナポリタン
横浜薬局 清涼飲料水

横浜バプテスト神学校発祥の地

アメリカ北部バプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)は,
1873(明治6)年に 宣教師・ネーサン・ブラウン夫妻を日本に派遣して 宣教活動を始め,
横浜に日本バプテスト横浜教会を設立した。
1884(明治17)年には 代官坂東側の山の上に“横浜バプテスト神学校”を創立,
牧師・伝道師の養成を開始した。

1910(明治43)年 「横浜バプテスト神学校」は「福岡バプテスト神学校」と
合併して 「日本バプテスト神学校」となり 東京小石川へ移転した。
1918(大正7)年,「東京学院」(旧・東京中学院)と合併して,同校の神学部となった。
1927(昭和2)年,「東京学院」は「中学関東学院」と合併して 「財団保人関東学院」となり,
 神学部も横浜に移転。
1935(昭和10)年,神学部は 青山学院と合併,1943(昭和18)年に 閉鎖された。

この碑は 関東学院の創立125周年記念事業の一環として,2009(平成21)年に建立された。

元町中華街駅から 元町公園の右側(額坂)の階段を登っていくと,
坂の中ほどの民家の横にプレート型の発祥碑が建っています。

当時の横浜バプテスト神学校(碑の写真)


幼児教育

混血児のための教育の必要性を訴えたジェイムス・バラの呼びかけに
アメリカ夫人一致外国人伝道協会が応え、3人の夫人宣教師が派遣された。
明治4年(1871)8月28日、3人は山手48番のバラ邸を借り、ブライン夫人を総理、
ピアソン夫人を校長、クロスビー女史を会計として
亜米利加婦人教授所(アメリカ・ミッション・ホーム)を開いた。
  
左からブライン夫人・ピアソン夫人・クロスビー女史

当初の生徒は混血児十数名、日本人の少女2〜3名であったという。
男子生徒の入学希望者が多かったので午前を男子部、午後を女子部とした。
母親のいない3歳以下の幼児を受け入れた。
その後、女子入学者が増え、男子生徒は謝絶することになった。
明治5年(1872)10月、山手212番に移転。
名称を日本婦女英学校に改称した。
これが日本最初の保育事業とされる。

1878年 共立女学校に改称。
1932年 横浜共立学園に改称。
1948年 横浜共立学園中学校・高等学校となる。

横浜共立学園中学校・高等学校

明治13年開校のブリテン女学校には横浜最初の幼稚園が付設されてます。

トマトケチャップ発祥の地

日本には,明治時代に大量に導入された西洋料理とともに伝わり,
国産のケチャップとしては 1896(明治29)年に この地(横浜・子安村)で清水屋が
製造しはじめたのが最初とされています。
その間の事情は 下記の説明板に詳しく書かれています。
その後 1908(明治41)年には 現在のカゴメ(株)からケチャップが発売されている。

清水屋トマトケチャップの創始者・清水與助


〜トマトケチャップ発祥の地〜
    武蔵国橘樹郡字街道通子安村

(説明板)
     西洋野菜栽培とトマトケチャンップのふるさと
 トマト,セロリ,レタス,・・・。今ではおなじみの西洋野菜。
 子安は最初に西洋野菜を栽培しトマトケチャップ製造をはじめた農村の一つで,
当時の人々の努力による実りが,今の食卓を彩っています。

  1859年(安政6年)の横浜開港によって,西洋野菜が日本へ入ってきました。
  1862年(文久2年),居留外国人ローレイロが菜園を作ったのを皮切りに,
多くの居留外国人が山手に農場を開設。やがて,根岸,磯子,子安など近隣農村へと
西洋野菜栽培が急速に拡がっていきました。

  子安で西洋野菜栽培が始まったのは,1866年(慶応2年)ごろ,
子安村の堤春吉が外国船に食材などを納めていた倉田政吉からセロリ,カリフラワー,
ビート,ラディッシュ,玉ネギなどの種を譲り受け,子安村の人々とともに
西洋野菜栽培を始めました。
  
子安は東海道に面しており,東京と横浜の中間地点で二大消費地への出荷が
容易だったことに加え,西洋野菜栽培に適した土壌から,子安村での西洋野菜栽培は
盛んになっていきました。

明治時代半ばには子安村の栽培農家は80戸程度まで増加し,
1894年(明治27年)には地元の清水興助がトマトケチャップ製造会社清水屋を始めました。

1911年(明治44年)ごろには「子安西洋野菜」作付面積は50ha近くになりました。
しかし,大正初期から子安付近の埋め立てが進み,
西洋野菜栽培で栄えた村も京浜工業地帯として発展することになりました。
 
トマトケチャップ発祥の地の碑は
 第一京浜国道の子安ランプ入口交差点から少し西側の歩道上にあります


マッチ

明治8年(1875年)正月、持丸幸助がアメリカから機械を取り寄せ、平沼に
工場を建てた。これは従来日本最初とされる東京の新燧社よりも早い。
同年、ブラウァーも戸部で汽車印マッチを製造した。
ブラウァーと持丸の工場は同一の可能性があるようだが
その製品の販売に従事していた菊林林蔵も、のち三吉町に製造所を設立した。


従来日本最初とされる新燧社金沢藩士「清水誠」が、
明治3年欧州に留学し、当時外遊中の宮内次官吉井友実に勧められて、
マッチの製造法を研究し、帰国後の1876年(明治9年)東京市本所柳原に「新燧社」を設立、
本格的にマッチの製造(黄燐マッチ)の生産を開始。マッチの製法を広く公開したこと、
当時の失業士族救済のための授産産業として奨励され、
各地にマッチ工場が設立されました。

フランス留学のため清水 誠が横浜港を出航した日の5月12日を「マッチの日」としています。
また、1975(昭和50年)5月12日に東京都江東区亀戸天神社境内に
「清水誠顕彰碑」が再建されました。

新燧社のマッチ

横浜薬局

横浜にはじめて本格的な薬局が開業したのは、1864(元治元)年7月1日のことです。
居留地で発行されていた英字新聞「ジャパン・ヘラルド」の同年七月十六日号の広告欄に、
横浜薬局とあるのがそれで、場所はチャータード銀行のそば、
現在の中華街入口の朝陽門(東門)あたりです。
その後薬局は、1868年ごろ居留地93番に、1869年ごろ59番に移転しました。

横浜薬局の経営者は、イギリス公使館付医官を経て1863年から横浜で
内科医兼外科医をしていたグリフィス・R・ジェンキンズであることがわかった。

しかし別の史料では、横浜薬局にはもう一人経営者がいたことが判明。
62年にイギリス公使館付医官として来日したウィリアム・ウィリスである。

兄ジョージにあてた書簡によると、ウィリスは1863年12月、
薬局のない横浜に上海薬局が進出する意向があることを聞き、
ジェンキンズと共同出資で開業する決意をしました。
ジェンキンズが勤めていた横浜ホスピタルと領事監獄で使用する治療薬は、
横浜薬局で調合されることになっていたといいます。

ウィリスは医師である兄に医薬品と医療器具の注文を依頼、以後兄は
イギリスでの代理人となり、ジェンキンズが「表向きの経営者」、つまり代表者となった。

居留地の図書館

横浜の外国人は町をつくるにあたって、図書館を設けることの必要性は早くから
認識されていた。おそらく最初の図書館は外国人の社交クラブに付属するもので
あったろうと思われます。
1863(文久3)年中に相次いで設立された共同サービス・クラブ
(のちの横浜ユナイテッド・クラブ)やクルプ・ゲルマニアである。

しかし、記録上確かな最初のものは、1864(元治元)年12月、
居留地91番地(現在のロイヤルホールヨコハマの辺り)に開館した
横浜インスティテュートなる会員制図書館であった。
寄付や借用によって書籍・雑誌・地図・チェスなどを集めていたが、長続きしなかったらしい。

1870(明治3)年6月には、水町通りに、やはり会員制の
横浜パブリック・ライブラリー&リーディング・ルームズがオープンしたが、
会費滞納で行き詰まり、1年後に閉鎖されています。

しかし、明治6年5月には、横浜ユナイテッド・クラブの図書室が拡充されるとともに、
写真館の営業で名高いスティルフリード商会(59番地、中華街東門付近)が
貸し出し専門の「横浜図書館」を開設し、4千冊に及ぶ図書の貸し出しを始めた。

居留地消防隊

1863年(文久3年)12月22日のクニフラー商会から出火した火災を契機として、
1864年1月に居留地消防隊が組織された。
これが居留地消防隊の創始とみられます。
イギリスに注文した3台のポンプ車は1864年末に到着配備されました。

この場所(情報文化センター内の遺構)は, 1871年(明治4年)から1899年(明治32年) 
まで居留地消防隊が本拠地としました。
この貯水槽は1893年(明治26年)に建造され、1972年(昭和47年)まで使用されました。
2003年(平成15年)4月に 「旧居留地消防隊地下貯水槽」として公開されました。

ここは平成6年まで「日本大通消防出張所」として100年以上の歴史があります。



居留地消防隊(中消防署シャッター)

<最初の火の見>
1864年2月26日の居留地消防隊の会合で、居留地80番横浜天主堂の
ムニク神父と協議の上、天主堂の鐘をファイヤー・アラームとして使用し
監視人を置くことで合意。

居留地内の火事では1撃
日本人街2撃
弁天のオランダ領事館一帯は3撃
元町方面は4撃と決められた。

初代横浜天主堂

テイラー

横浜に進出した最初のテイラーは、1863年(文久3年)12月に開業した
ドイツ系のラダージ・オエルケ商会です。
店の場所は何度か変わり、1864年横浜ホテル内に移っている。
1868年以降、居留地53番に定着。
足袋職から洋服職に転じた関清吉が慶応元年に勤めていたという
ラウジー商会がこれに該当すると思われます。

開港後、最初に洋服を持ち込んだのは万延元年(1860)の雑貨商で、
オランダ人のバッテケなどです。
そこで技術を習得した増田文吉が独立して開業したのが、
我が国最初の洋服裁縫師と云われています。


ナポリタン

「ホテルニューグランド」は、関東大震災後の横浜の再復興のシンボルとして、
1927年に開業しました。

1945年に太平洋戦争が終結し、ホテルニューグランドはGHQの宿舎として接収されました。
そしてある時、ダグラス・マッカーサーが”ハンバーガーが食べたい”と洩らしたそうですが、
戦後の物資不足で作れなかった。

そこで至急、食料物資を取り寄せたのですが、その中にパスタとケチャップがあった。
その時、2代目総料理長を務めていたのが入江茂忠だった。
彼は、米兵がパスタにケチャップをかけて食べているのを見て、レシピの発想を得たとの事。
この時ケチャップを使用したのではなく、
独自のトマトソースを使用して誕生したのがナポリタンです。
  
現在のようにピーマンやケチャップが入ったナポリタンは
野毛のセンターグリルという老舗のレストランが初めてのようです。

ここセンターグリルの創業者は、そのホテルニューグランドの初代総料理長が
経営するセンターホテルで修業を積んで、センターグリルを開業したそうです。

 ホテルニューグランドのナポリタンにはトマトソースが使われていましたが、
ケチャップを使ったナポリタンは、ここセンターグリルが初めて。
その意味で今の形態のナポリタンの元祖は、ここセンターグリルと言えそうです。

ホテルニューグランド旧館


このナポリタンは
ホテルニューグランド1Fの「ザ・カフェ」というレストランで食べる事ができます。


清涼飲料水

清涼飲料水の代表格ソーダ水製造の第一号は、
1864(元治元)年3月26日に上海から進出したファー兄弟商会である。
場所は84番(現在の山下町84番地、ホテル・サンポート付近)にあった。

新聞に掲載した広告には、製品として、ソーダ水、トニック・ウオーター、
レモネード、ジンジャー・ビールを列挙している。
「ラムネ」の語源と考えられるレモネードの製造販売広告としては、これが最も早い。

1867(慶応3)年1月には146番アッズの名で、蒸気機械によるソーダ水製造の
広告が出ている。機械制の製造所としてはこれが最初である。

1865(慶応元)年7月には、洋服の仕立て屋として名高いコック・アイが、
ジンジャー・エールやソーダ水、レモネードの製造販売広告を出している。
また、この年12月には、パーン商会がソーダ水の製造機械を売りに出している。

明治時代の横浜で最も知られた西洋雑貨商に、近栄洋物店があった。
慶応元(1865)年横浜に出てきた創業者の飯島栄助は「外国人経営のラムネ製造所」で
働いた後、当時「ギヤマン徳利」と呼ばれた廃品のガラス瓶を集めて売る「古徳利商」を
始め、これが当たって身を立てるきっかけとなった。国内でガラス瓶が普及するように
なったのも、横浜居留地の清涼飲料水製造所によるところが大きいといえます。


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