INDEX NO-5 NO-6 NO-7 NO-8 NO-9

鉄道発祥の地 日本最初の洋式公園発祥の地
灯台局発祥の地 日本テニス発祥の地
西洋理髪発祥の地 ヒマラヤ杉が最初に植えられた地
消防救急発祥の地 クリ−ニング発祥の地
西洋医科歯学発祥の地 日本最初の邦字新聞発祥の地
西洋医科歯学勉学の地 日刊新聞発祥の地
日本洋裁業発祥の地 日本基督公会設立の地
■日本初のプロテスタント教会

鉄道

 旧暦明治5年5月7日(1872年6月12日)、横浜―品川間を初めてテスト営業として鉄道が走り、
4ヵ月後、区間が新橋まで延長され、旧暦明治5年9月12日(1872年10月14日)、
横浜―新橋間での本営業となりました。
これが日本における鉄道の始まりです。

当時は1日9往復で、運転時間は53分。最初の横浜駅のあった場所は現在のJR桜木町駅、
新橋は現在の汐留でした。当時、横浜と新橋の間を53分で走り、大変スピードの速い乗り物だった。
もしも馬車でこの区間を走ったとすると、4時間はかかった時代です。

運賃も相当な高額で、人々はすぐに鉄道を利用しようとはせず、自分の2本の足で1日かけて
目的地までという従来の方法を取る者が多かったといいます。ソバが1杯5厘という時代に、
1番安い下等の料金が50銭。ソバを100回食べたつもりでやっと下等に乗る事ができたのです。
後に運賃は改定され、上等1円12銭5厘、中等75銭、そして下等は37銭5厘となり、
1日9便の運行となりました。


[鉄道発祥の地]碑
場所:桜木町駅近くの関内寄りの高架下の広場。





〜鉄道創業の地〜

我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、
この場所にあつた横浜ステイシヨンと品川ステイシヨンの
間で開通し、その営業を開始しました。わたくしどもは、
当時の人の気概と努力とをたたえ、

このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、
さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。

昭和42年10月14日

鉄道発祥記念碑建設特別委員会


途中駅は品川、川崎、鶴見、神奈川の4駅。

3面に書かれている内容は、
1.当時の運賃、時刻表
2.当時の横浜駅
3.鉄道創業の地


創業当時の横浜駅が描かれています。
(現在は桜木町駅)

桜木町駅の誕生は1872年(明治5年)で、
当時の横浜駅が現在の桜木町駅だったが、
この横浜駅舎、つまり桜木町駅の設計はアメリカ人の
ブリジェンヌという人物がこれを行い、
2階には貴賓室も設けられていた。


初代駅長室跡


記念碑横の自由通路の外壁にあります。


エドモンド・モレル肖像
エドモンド・モレルは後に「鉄道の父」と呼ばれるほどの功績を残した。
(駅自由通路の柱にあります)


初代横浜駅(現 桜木町駅)のパネル。 駅前広場歩道橋階段にあります。


現在のJR桜木町駅


灯台局

明治元年8月(1868年9月−10月)に洲干弁天官舎跡に灯台掛の木工場が建設されました。
ここが、翌年1869年7月に灯台局と改称し、全国各地の灯台建設の根拠地となりました。

明治元年2月2日付けで採用したブラントンにより本牧灯船が建造され、
明治2年11月19日に本牧沖に係留・点灯されました。
プラントンは帰国するまでの間に28基の灯台を建設しました。

灯台局は明治4年8月(1871年9月−10月)に灯台寮と改称され、
灯台設備の試験や灯台保守要員の養成を行いました。
第33回灯台記念日に「灯台局発祥の地」が建てられました。

観音埼灯台は日本最古の灯台で1869年(明治2年)にフランス人ヴェルニ―が建設しました。
現在の物は3代目。ヴェルニ―は野島崎灯台など4基建設し、その後プラントンが全国の
灯台建設に携わり、28基を建設しました。

「灯台局発祥の地」
場所:マリタイムから北仲橋を渡って左側で今は
駐車場になっています。

記念碑は今はありません。

どこに移転になったかわかりません。


[氷川丸桟橋にある白灯台]

横浜港口部に明治29年5月に「赤・白灯台」が設置された。
この灯台は関東大震災後修補され、
赤灯台は当初の位置に、白灯台は氷川丸桟橋突堤に
移設されました。
これが横浜に現存する最古の灯台です。


[横浜港内にある赤灯台]


観音埼灯台

日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を
記念して11月1日が灯台記念日に指定された。
初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当した。
西洋理髪

 西洋理容の発端は、1869(明治2年)に政府の「断髪令」に先がけて小倉虎吉が
山下町148番地(現在の中華街)に横浜で初めての理髪店を開業しました。
断髪令と言っても散髪の許可が政府から下りただけでした。

また、開港後に小倉虎吉、原徳之助、松本定吉らの7、8人が入港した異国船の
船員の顔の髭を剃ったのがきっかけともされています。「床屋」と言う語源は「床の間にある店」から
「床場」と変わっていき「床屋」になっていったと言われています。

「半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする」
「惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする」
「ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする」

上記に記載した3行の文言が当時の新聞に掲載され国民へ流行しました。
これは新政府の木戸孝允が新聞の偉大な役割に着目して掲載させたもので、
文明開化にザンギリ頭が欠かせないものであるという観念を国民に植え付けたものでした。


[西洋理髪発祥の地]碑
顔に「ZANGIRI」と書いてある。

場所:山下公園内。


記念碑の説明文。

〜ザンギリ頭をたたいてみれば
文明開化の音がする〜

安政の開港とともに、生活様式の洋風化が
進むなか政府の「断髪令」に先がけ、

明治2年(1869年)横浜に
我が国初の「西洋理髪店」が開業され、
欧米風「ザンギリ頭」は文明開化の
一翼を担うこととなった。

平成元年吉日


当時の様子 (Y150看板より)



消防救急

1866年(慶応2年)に現在の末広町付近の豚肉屋から出火し外国人居留地と
日本人街の大半が焼失しました。この火事のことを「豚屋火事」といいます。

当時の家屋は木で建築していたため広い被害が出たために外国人居留地と
日本人街の幅を広げ国境を作り火事の防火対策として、イギリス人のR.Hブラントンが
中央に車道12m、左右に歩道3mと植樹帯9m、合計道路幅員36mと言う
近代的な道路を造り上げました。それが現在の日本大通りです。

1994年(平成 6年)の2月まで
中消防署日本大通消防出張所がありましたが建物の老朽化の為、
新築移転したため今は記念碑が展示されることとなりました。

また、当時の横浜は火事が起こりやすい環境であったために
旧 地下水槽遺構と消防救急発祥の地が当時そこで活躍していた頃を
物語っているかのように記念碑として残されています。



[消防救急発祥の地]の碑
場所:旧中消防署日本大通消防出張所の跡地。
(現駐車場)

〜プレ−ト〜
プレートに描かれた「当時の救急車」
昭和8年(1933年)2月日本で初めてこの地(当時の山下町
消防署)に救急車が配置運用開始されました。



平成6年2月まで中消防署日本大通消防出張所として
使用していましたが、建物の老朽化により、消防出張所は、
新築移転されました。

移転後、庁舎は解体され、 
「消防救急発祥の地」記念碑と「地下貯水槽遺構」が
展示されています。

移転後の「中消防署山下町消防出張所」


「中消防署山下町消防出張所」のシャッターに当時の写真が





旧居留地地下水槽遺構




「地下貯水槽遺構」

場所:[消防救急発祥の地]の碑の横

Y150看板より








西洋医科歯学

 1860年(万延元年)に歯科医師として横浜に来日したアメリカ人の
ウィリアムス・イーストレーキ師が3度目に来日して診療所を明治14年に開設しました。

また、彼が1868年(慶応4年)に2度目の来日時は診療所の開設をし、
日本人の歯科医師の育成にも励んでいました。診療所の場所は未だ不詳。
1800年(寛政12年)以降のアメリカでは歯科医学は高い水準値にありました。

ウィリアムス・イーストレーキがその中でも最初と言われその後にジョージ・エリオット博士や
マーソン・パーキンス博士などが横浜で診療所を開業していき、

それを松岡萬蔵が引継いでいったといいます。だが、西洋歯科医学は横浜が最初ではなく、
長崎において1823年(文政6年)にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって
日本で初めて発祥されたとされています。



[我国西洋医科歯学発祥の地]碑

場所:馬車道から桜木町へ歩いた所に
神奈川県歯科医師会があります。
その玄関に勉学の碑と並んで建っています。

碑の裏に記されている説明文

〜西洋医科歯学発祥の地〜

ここは、万延元年(1860年)歯科医師として
最初に来日した
米国人ウィリアム・クラーク・イーストレーキ博士が、
来浜三度目の明治14年に歯科診療所を開設した
ゆかりの地である。 

博士は、明治元年二度目の来浜に際し
歯科診療所(所在地不詳)を開設し、
身的な診療活動のかたわら日本人歯科医師の育成に
努力を傾注し、日本近代歯科医学の世界的発展の
端緒を開く役割を担われた。 

いま、イーストレーキ博士の来浜百二十五周年
ならびに、神奈川県歯科医師会創立60周年を
迎えるにあたり、博士の多大な功績を讃えその
意義を後世に伝えるため西洋医科歯学発祥の
この地に顕彰の碑を建立するものである。

昭和60年11月吉日
社団法人神奈川県歯科医師会
会 長  加藤 増夫

日本人で西洋歯科医師第一号は小幡英之助。
小幡英之助は歯科医エリオットのところに学んだ。



記念碑は以前は
中区山下町の駐労会館前に
有りましたがここに移転しました。。
*書かれている内容
セント・ジョージ・エリオッ
エリオットはアメリカ南北戦争終了期に陸軍医務官として従軍した。
終戦後、フィラデルフィア歯科医学校を卒業して1870年に、この57番館で開業し、
1874年まで5年間診療に従事した。
その後、上海、シンガポールを経て英国ロンドンの歯科学校で手術学を5年間講義した。
のちに故郷に帰り、ニュージャージー州サウスオレンジ市第商4年ごろ逝去。

ハラック・マーソン・パーキンス
パーキンスは米国ペンシルベニア州に生まれ、ボストン歯科学校を卒業した。
37歳頃、横浜のこの地にエリオットの後を受けて開業し、多くの門人を指導。1881年秋帰国する。

松岡萬蔵
明治3年より14年までパーキンス両歯科診療所に歯科技工士として勤務し、
その技術優秀にして両先生に信頼されていたが、早逝している。
我が国における歯科技工士として嚆矢である。


西洋歯科医学勉学

 アメリカ人歯科医師セント・ジョージ・エリオット博士は、1870年(明治3年)から
1874年(明治7年)まで横浜居留地57番で歯科診療所を開設し門下生を指導しました。

1874年(明治7年)のエリオットの出国後は同国歯科医師ハラック・マーソン・パーキンス博士が
診療所を引き継ぎ、1881年(明治14年)の帰米まで開業しました。両医師の門人がここで
近代歯科医学を学び、伝えたことが今日の歯科医学発展の基礎を成したとして、
1995年(平成7年)に神奈川県歯科医師会が建立したのがこの碑です。

エリオットが開業していた当時、木戸孝允、新島襄、西郷従道ら、
ときの名士もここで治療を受けました。



[西洋歯科医学勉学の地]碑
記念碑の中央にはエリオット博士(左)と
パーキンス博士(右)のレリーフが刻まれています。



場所:馬車道から桜木町へ歩いた所に
神奈川県歯科医師会があります。
その玄関に西洋医科歯学の碑と並んで建っています。


記念碑は以前は山下公園前の通りから2本中に入った
通りの角にこの碑はありましたがここに移転しました。


 記念碑の説明文
右に日本語、左側は英語で書かれています。

〜西洋歯科医学勉学の地〜

エリオット博士は、居留地五十七番のこの地に
歯科診療所を明治三年より同七年まで開設し、
外国人の歯科診療に従事するかたわら、
木戸孝允、新島襄、西郷従道を治療し小幡英之助、
佐治職を門下生とし指導されました。

同博士の帰国にあたり同診療所を引き継いだ
パーキンス博士は明治十四年秋、帰国まで診療の
かたわら西村輔三、関川重吾、太田吉三郎、
渡辺晋三、山田利充、林譲治、黒田虎太郎らに
西洋歯科医学の指導をされました。

これら両博士の門人が多数の本邦人に
西洋医科歯学を伝承し、今日の近代歯科医学の
基礎をつくられた功績は真に大であります。

本会創立七十周年に当り、ここに、
「西洋歯科医学勉学の地」記念碑を建立して、
両博士の功績を讃える次第です。

平成七年五月吉日

神奈川県歯科医師会


日本洋裁業

 日本の洋裁業発祥は、1863年(文久3年)11月27日に開業した英国人ピアソン夫人の
サムエル・クリフト支店が最初です。

日本人では宣教師ブラウン夫人の傭人だった沢野辰五郎が早い。
 この店のあった横浜居留地97番は今の山下町97あたりです。

すぐ近くの本町通りのホテルサンポート、現「メトロタワー山下町」の入り口左手に
「日本洋裁業発祥顕彰碑」が平成7年に建てられました。




[日本洋裁業発祥顕彰碑]

場所:メトロタワー山下町の入口。



〜日本洋裁業発祥顕彰碑建立〜

碑文
 1863年(文久3年)英国人ミセス・ピアソンが
横浜居留地97番にドレス・メーカーを開店したのが
横浜の洋裁業の始まりである。 

その頃から在留西洋婦人は自家裁縫のため
日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として
雇いこれにより婦人洋服仕立職人が育った。

 以来130有余年、先人達の偉業を称え、
その精霊をモニュメントに表徴して永く後世に
伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、
日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する

1995年 平成7年11月24日

ホテルサンポートは「メトロタワー山下町」に
建て替わりました。
みなとみらい線元町中華街3番出口の建物は明治時代にこの場所にあった
婦人衣服製縫所ビンセンド商会の建物外観をイメージしたものです。


我が国初の洋式公園

山手町一帯は, 横浜の開港にともなって 外国人が居住するための居留地がおかれた地域。
山手公園は居留する外国人が 日本政府から約6千坪の土地を借りて
自らの資金で開設した“外国人専用”の公園で, 1870(明治3)年5月6日に開園し、
日本最初の洋式公園となりました。

その後 経済的な理由で 居留民が公園を維持できなくなり, 日本政府に返還された。
同時期に創設されたテニスクラブ(レディズ・ローンテニス & クロッケー・クラブ)が{ローン=芝生}
公園の管理をする代わりに 公園の 1/4 をテニスコートとして利用することが許可された。
太平洋戦争後, 公園は 米軍に接収されたが, 1952(昭和27)年に返還された。



[我が国初の洋式公園の碑]

場所:山手公園テニスクラブハウス前


当時の野外音楽堂を彷彿させる東屋





碑の左にある説明板
説明文

〜日本最初の様式公園〜

横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の
遊園地を望む声があり、慶応三年(1866)に
外国公使団との間で結ばれた
「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」
(慶応約書)によって、
その要求が幕府に認められました。

しかし、この中の公園計画は具体化しないで
終わりました。

明治2年(1869)に居留民代表から改めて
要求が出されたのに対して、日本政府は
山手妙光寺付近の土地、約6千坪を、
慶応約書で約束した土地の代替地として
貸与しました。公園の造成は居留民が行い、
明治3年5月6日(1870年6月4日)に
開園したのが山手公園です。

明治11年(1878)からは居留外国人女性で
組織される
横浜レディ−ス.ロ−ン.アンド.テニス.
アンド.クロッケ−.クラブ(横浜婦女弄麹社)が
管理することになり、クラブハウスとコ−トが
ここに設けられました。

横浜教育委員会


テニス発祥

現在のテニスが生まれたのは、1865年に英国の陸軍であったブラウント大尉を代表として
設立された「ラケット・コート・クラブ」です。この頃のゲームは2人がラケットを持ち、
壁にボールを打ち合うものでした。これが現在のテニスの形となるものです。

それから年月が経ち、1874年(明治7年)にイギリスのウィングフィールドが近代テニスに
近いルールを作り、1876年(明治9年)に「ローン・テニス・クラブ」が生まれ、コートを今の
横浜公園のクリケット・グラウンドに設けました。

その頃のテニスはネットの高さも、
コートの広さも自由でした。同年にジョーンズにより、コートやボールなどの規定が
ほぼ現在の形に改良され、7月に最初の全英選手権大会が開催されました。
これが近代テニスのできるまでのいきさつです。

現在もYITC(横浜インターナショナル テニス コミュニティ)がテニスクラブを運営。
クレーコートをクラブハウスの前に2面、高台に4面の計6面を有してます。

横浜市営テニスコートは人工芝が6面あり、旧山手68番館の建物は
市営テニスコートのクラブハウスとして使われています。

YITC (横浜インターナショナル テニス コミュニティ)

1982年に"Club"が"Community”に置き換わりました。
公益法人としての位置付けを明確にしたことに由来します。
当コミュニティのキーワードは「ボランティア精神」です。
YITCの運営を監督指導する理事会や種々の委員会はメンバー自身が運営されてます。



[日本庭球発祥の地]碑

場所:山手公園入口に建ってます。

YITC (横浜インターナショナル テニス コミュニティ)のテニスコート
左はクラブハウス。右は専用クレーコート(6面あります)

横浜市営コート(人口芝6面あります)
 *旧山手68番館(左)は山手公園管理事務所で昭和61年にここへ移築されました。
現役で横浜市営テニスコートのクラブハウスとして使われています。

[テニス発祥記念館]
1944年(昭和19年)に山手公園は横浜市に管理が移り、1998年(平成10年)に
「テニス発祥記念館」を建てられました。


テニス発祥記念館lの展示品


わが国最初のヒマラヤスギ移植の地

ジャパン・ヘラルド社のイギリス人ヘンリ−・ブルックが、インドのカルカッタからヒマラヤスギの
種子を輸入し、山手居留地一帯に植えたのが日本で始めてのヒマラヤスギです。

インドがイギリスの植民地だった頃から、ヒマラヤスギは形の美しさから庭園の木として、
人気があり、取り寄せをしていました。その後、たくさんの苗木に育ち、皇居に献上されたり、
新宿御苑をはじめとした、公園樹として全国に広がっていきました。

当時、山手公園にもテニスコートを囲むように種が植えられていました。
大正から昭和の初め頃には、横浜のあちこちで、
横に張り出した大きな枝が風にゆれていました。
しかし、1965年代(昭和40年)に入るころから、ヒマラヤスギは、
大きくて邪魔だと言う理由から、伐採が進み、どんどん減ってしまったのです。

また、山手公園のヒマラヤスギもその影響を受け枝を切られたり、
台風などの影響を受け倒れたり、
直径1mを越す大木は今では数十本しか残っていません。

その貴重なヒマラヤスギは横浜市の名木古木に指定されています。

 *ヒマラヤスギは杉ではなく松科の仲間。戦前はブルーク松と呼ばれていました。



横浜の名木古木に指定されています。

場所:山手公園入口




         
ヘンリ−.ブルックのお墓は外国人墓地の中にあり、
1本のヒマラヤスギに守られています。


クリーニング

1859年(安政6年)3月5日付で青木屋忠七に与えられた「外国人衣類仕洗張」の
営業許可書が与えられており、外国人相手の洗濯業として元祖の方になります。

しかし、本格的にクリーニング業を始めたのは、長崎で西洋洗濯を学び、
1861年(文久元年)横浜で開業した渡辺善兵衛です。店の前を流れる小川のなかに
大きい丸い石があり、外国人の衣類をその石に叩きつけて、洗濯していました。

近代企業のクリーニング業は岡沢真次郎が谷戸坂で洗濯業(清水屋)を開業し
脇沢金次郎が継承しました。洗濯技術は渡辺善兵衛から習いました。
また、フランス人ドンバルは技術指導および普及発展に貢献しています。


[クリーニング発祥の地]碑

場所:谷戸坂の登り口左側

〜碑文〜
クリーニング発祥の地

 「安政6年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の
5丁目にて始めて、つづいて岡沢真次郎氏、
横浜元町に清水屋を開業、慶応3年、脇沢金次郎氏、
この地を継承し近代企業化の基礎を成した。

この間、フランス人ドンバル氏、
斯業の技術指導および普及発展に貢献された。
この業祖の偉業顕彰し、
ここにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する。

 昭和48年11月吉日



フランス山全景:上は「港の見える丘公園」です
記念碑の場所は谷戸坂の登り口左側にあります。


谷戸坂


日本最初の邦字新聞

 1837年(天保8年)に兵庫県で生まれた浜田彦蔵(幼少時代は彦太郎)は、
1850年(嘉永3年)に摂津の栄力丸で江戸からの帰帆途中に
台風に遭遇してアメリカの船に助けられました。

その後、彦太郎はアメリカの地で勉学をし、
1858年(安政5年)に帰化第一号としてアメリカの市民権を得ています。

また、キリスト教の洗礼を受けてクリスチャンネームの「ジョセフ」を用いてこの頃から
ジョセフ彦と名乗るようになりました。

また、1859年(安政6年)に帰国したジョセフ彦は
アメリカ領事館の通訳に選ばれ、日米修好条約の締結などの派遣に大忙しでした。

そして1864年(文久4年)に岸田吟香に協力してもらい横浜で初めて手書きの新聞紙を
創刊し定期的に刊行するようになりました。その時は改題され「海外新聞」となり
外国新聞の翻訳を用いた新聞でした。

海外事情が日本語に翻訳されており海外事情を明らかにすることが
目的とされ郵便船が持ってきたが、新聞発行が赤字であったため数ヶ月後に幕を閉じました。
この海外新聞が横浜から広まっていった日本最初の邦字新聞です。



[日本国新聞発祥の地]碑

場所:中華街関帝廟のすぐ近くの歩道上。




[ジョセフ・彦]



碑の左上に貼ってある新聞
「海外新聞」と書いてあります。


日刊新聞 ■

 日刊新聞の始めは「横浜毎日新聞」であり、創刊は1871年(明治4年)1月28日でした。
それ以前も新聞はあったものの、いずれも外国人の手によって刊行されており、
1865年5月、浜田彦蔵が翻訳した「海外新聞」が創刊されるまで、日本語のものはありませんでした。

最初、物事の伝達手段は、聞く事しかなく。それが「かわら版」となり、
そして新聞へと姿を変えて行ったのでした。

「横浜毎日新聞」は、当時神奈川県知事だった井関盛良が横浜の貿易商らに呼びかけ、
その出資により刊行に至ったもので、横浜の当時を色濃く反映しており、

貿易・経済関係のニュースが主でした。他には迷子・売家・移転・落し物等のお知らせが掲載され、
2ページもので売られており、価格は1匁(100厘)で、
売るのは「新聞おじさん」と呼ばれるハッピ・半てん姿の人でした。
これが日刊新聞の始まりであり、鉛活字と西洋紙を使用した新聞の誕生であります。

以降、この「横浜毎日新聞」は、改題を繰り返しながらも、
1941年(昭和16年)に、残念ながら姿を消す事となりました。


初版 



横浜アイランドタワー

〜日刊新聞発祥の地 記念碑〜

日刊新聞発祥の地

  明治三年十二月八日 我が国日刊新聞が
鼻祖「横浜毎日新聞」はこの地で誕生した 

この新聞はまた冊子型木版刷りの旧型から 
活字一枚刷りの現代型へと踏切った
我が国最初の新聞であった 

これが端緒となって 日本が大新聞国へと
発展したことを思うと文明開化の窓口としての
横浜の意義はきわめて大きい

 こうした偉業を記念すると同時にその計画者
 時の神奈川県令井関盛良社長島田豊寛 
編集担当者子安峻 印刷担当者陽其二 
資金協力者原喜三郎 茂木惣兵衛 吉田幸兵衛 
増田嘉兵衛 高瀬英祐等諸氏の功績を後世に
伝えるためこの記念碑を建立する

   昭和三十七年十月十日

 撰文 日本新聞学会会長 上野秀雄
 書   神奈川県知事    向山岩太郎
 協賛          神奈川県
              横浜市
              日本新聞資料協会

 建立          神奈川新聞社

  (裏面)
    この記念碑は当初 昭和三十七年十月十日
   横浜市中区北仲通五丁目の旧生糸検査所の
敷地 内に建立されました。

その後,再開発に伴い解体,撤去され 
同敷地内に復元を予定していましたが,

本来の創刊の地が同区本町六丁目のこの地付近で
あることが分かり,横浜市の協力を得て,
ここに記念碑を移設,再建しました。

平成二十一年十二月八日


  神奈川新聞社


日刊新聞発祥の地 記念碑
この碑は横浜アイランドタワーの横にありましたが
再開発中の為、どこかに移転したか保管されたか
不明です。


日本基督公会設立の地
 
1871年(明治4年)5月にアメリカ人宣教師サミュエル・R・ブラウンとジェームズ・H・バラにより、
現在の横浜海岸教会の地に石造の小会堂が建てられました。

1872年(明治5年)、未だキリスト教禁制の時代であったにも関わらず、
日本人青年9人が洗礼を受け、日本初プロテスタント教会である「日本基督公会」が設立されました。
翌1873年(明治6年)にはキリスト教が解禁されるとともに信者は増大、
1875年(明治8年)に500人収容の大会堂が建設されたが、それがこの横浜海岸教会です。

1879年にはこの教会で日本人による初めてのクリスマスミサが行われたといいます。
本来の建物は関東大震災で崩壊しましたが、1933年(昭和8年)に現在の会堂が再建されました。

尚、最初のプロテスタント教会は山下居留地105番にあった「クライスト・チャーチ」です。
その後継が「山手聖公会」です。


[横浜海岸教会]

場所:開港広場のすぐ側。

開港する前の横浜村はキリスト教禁教令が
出されていたため教会はまだ一つもなかった。
しかし、開港してからは、各国の宣教師たちが
海を越え横浜にいる日本人へ布教するために
遥々やってきた。


プロテスタント公会発祥の碑
敷地内あり、日曜日の礼拝の時に撮れます。
海岸教会は2014/10月〜12月まで
大規模な改修工事(耐震補強)が実施されました。改修後の海岸教会です。
日曜日の礼拝前のチャーチ・ベルです。66回鳴り響きました。
チャーチ・ベルの音


日本初のプロテスタント教会

1863年(文久3年)、横浜に居留していた英米人によって
居留地105番(現在の前田橋際)に、
日本初のプロテスタント教会堂として建設された「クライスト・チャーチ」でした。

明治34年(1901)山手の現在地に移され、
尖塔がそびえる赤レンガ造の教会堂が建てられましたが、
関東大震災で倒壊したが昭和6年(1931)英国聖公会の
援助によって、大谷石の外壁をもつ現在の教会堂が再建されました。
それが山手聖公会です。

*2005.1.4信者の放火で内部が全焼しました。 
幸い外壁などは残っていて修復が終わりました。

*開港広場横の海岸教会が日本初のプロテスタント教会とする見方もある。
 (開港資料館の見解はクライスト・チャーチが初のプロテスタント教会堂としている)

居留地105番(現在の前田橋際)のクライスト・チャーチ

 
現在の山手聖公会と十字架(入口左側にあります)


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