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港町魚市場跡 旧税関事務所遺構
開港記念会館 旧横浜港駅プラットホーム
岡倉天心生誕の地 横浜赤レンガ倉庫
横浜町会所跡 波止場(象の鼻)
中居屋重兵衛店跡 波止場(大桟橋)
英一番館跡 横浜船渠1号ドッグ
生糸検査場跡 横浜船渠2号ドッグ
港町魚市場跡

横浜市役所の関内駅側に立っている「港町魚市場跡」の石碑は、当時1871年に高島嘉右衛門が
市場開設の許可を得て、1874年4(明治7)に船便には最適の場所といってもいい港町で
生鮮食品などを扱う市場を開設した場所でもある。
そして、1931年(昭和6)に横浜市中央卸売市場は神奈川区へ移転した。

当時の市場の周りには、現在の繁華街な伊勢佐木町や、駅の西側には、商業地区などがあり、
「港町魚市場跡」の石碑の隣には「港町魚市場を偲ぶ」と書かれた説明書きが建っている。
開国後、外国との貿易が盛んになっていったため色々な物品が輸入されてきたと
同時に魚市場も繁盛していった。

 「高島嘉右衛門」
高島嘉右衛門は横浜の実業家および易断家。
後に嘉衛門から嘉右衛門に改名。
明治初期に横浜港の埋め立て事業や当初の新橋から横浜間の鉄道建設にも貢献した
人物で、「横浜の父」あるいは吉田勘兵衛、苅部清兵衛らとともに「横浜三名士」ともいわれる。
その業績は高島町(現在は高島)という地名にも残っている。

高島嘉右衛門

「町魚市場跡碑」(写真中央)は当時の横浜市長 飛鳥田一雄・書

碑文(写真左)
港町魚市場を偲ぶ
明治四年陸奥宗光が神奈川県令のとき高島嘉右衛門の市場開設の出願を許可して
市内の衣紋坂 (今の横浜公園内) に欧米風の吹貫建築で本格的な食品市場を開設させた当時
この市場の取扱品目は魚介鳥肉獣肉青果物などでこれを四品市場といい後年の
港町魚市場がこれにあたる明治七年魚問屋組合を設立し市場益々繁栄せり
明治四十二年組合長太田徳次郎高島氏より士地千二百七十坪と建物一切の讓渡を受け
市場有力関係者と計り横浜食品市場 (株) 創立新築せるも大正十二年の大震災にて
焼失し再建営業愈々市場隆盛となる昭和六年法令により中央卸売市場開設のため
市場業者一同移轉今日に至る茲に此地の関係者昔日を偲び記念碑を建立す
浜つ子の 河岸を偲ぶや 港町  

港町魚市場偲ぶ碑
町魚市場跡碑
町魚市場跡の記念碑

開港記念会館

1909年(明治42年)の横浜港開港50周年記念事業として、1913年(大正 2年)に計画が出され翌年着工、
1917年(大正6年)に完成した。現在も横浜市中区公会堂として利用されている。
大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築のなかでは有名な建築物の一つである。
設計原案ならびに基本構造設計は福田重義と山田七五郎が行なった。建築当初の建築様式は、
辰野式フリークラシックとよばれる様式で、関東大震災後、構造補強が施され、
いわゆる復興デザインが加えられた。

時計塔の高さは約36mで、「ジャックの塔」の愛称で親しまれており、神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、
横浜税関本関庁舎(クイーンの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。

1913年(大正 2年):横浜港開港50周年記念事業として記念館の建設が計画され、設計案のコンペが実施された。
1914年(大正 3年):工事着工
1917年(大正 6年):6月30日竣工、7月1日開港記念横浜会館の名称で開館。
1923年(大正12年): 関東大震災により倒壊。時計塔と壁体の一部のみが、かろうじて残存した。
1927年(昭和 2年): 震災復旧工事が竣工。ただしドーム屋根は復元されなかった。
1945年(昭和20年): 太平洋戦争終戦後、連合国進駐軍により接収される。通称名は「メモリアルホール」
1958年(昭和33年): 接収解除。
1959年(昭和34年): 横浜市開港記念会館に名称変更。
1985年(昭和60年): 横浜市内で創建時の設計図が発見される。
1989年(平成元年): ドーム屋根等が横浜市により復元される。9月2日に国の重要文化財に指定される。

館内のステンドグラスは大正12(1923)年、関東大震災により焼失したが、
昭和2年に制作された物ですが、たわみや汚れが発生し、
ガラス自体の耐震性も低下していたことから、
横浜開港150周年記念事業の一環として修復が行われました。
これらの作品は、我が国のステンドグラスの歴史上、
非常に価値の高い作品として貴重なものです。
現在の横浜市開港記念会館
講堂
ステンドグラス(ポーハタン号)
竣工時(大正6年)
昭和2年(ドーム復元なし)
ドーム復元(平成元年)


岡倉天心生誕の地

 明治期の美術指導者岡倉天心は、幼名を角蔵といい、
越前福井藩士岡倉覚右衛門の次男として文久二年横浜に生まれた。
  そのころ福井藩は、殖産興業(民富)に力を入れており、安政六年十月には領内物産の集荷機関として
九十九橋北詰に物産総会所を設置、元締には幕末期にすでに照手でマニュファクチュア的機業場を
経営していた三宅丞四郎があたり、集荷した物産を海外に輸出するために、
長崎と横浜に商館を設置した。

  その横浜商館「石川屋(石川生糸店)」の支配人を務めたのが、天心の父覚右衛門です。
  当時の石川屋の繁盛振りは錦絵として残されているが、石川屋は本町5丁目(現本町1丁目)、
幕府運上所(現神奈川県庁)の目と鼻の先で現在の横浜開港記念会館の建立されている場所にあった。
岡倉天心生誕の地碑
岡倉天心
石川屋(石川生糸店)


横浜町会所 跡

横浜町会所は、ここ本町1丁目5番地に明治7年(1874)4月に竣工した。
石造り2階建て、屋上に高塔の有る建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を
執つた町会所でした。明治23年横浜貿易商組合会館と改称しその後横浜会館と改めましたが
明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開港50周年を記念して
現在の横浜市開港記念会館の建物が大正6年竣工しました。

 又この地は開港期より明治初年まで岡倉天心の父が支配人をしていた
石川屋越前藩(福井県)の生糸売り込み店があった処です。
石川屋閉鎖後は、その場所に町会所がおかれ、横浜商工会議所発祥の地ともなっており、会館横には、
現在「岡倉天心生誕の地」「町会所跡」「横浜商工会議所発祥地」と三つの碑が並んで建立されています。
町会所跡碑
横浜商工会議所発祥地碑
町会所(明治7年)

 中居屋重兵衛店跡

中居屋重兵衛は群馬県嬬恋村出身。開港時の横浜で、生糸貿易の取引の大半を行った。
当時、ここには「あかがね御殿」と呼ばれる豪壮な店があった。
 現在は無き中居屋重兵衛の店のあったところには店跡の記念碑が建っています。
当時未だ生きていた頃の重兵衛は豪商といわれるほどの生糸商人であり、
横浜が開港したとともに生まれ故郷の群馬県から遥々横浜まで進出してきた。
そこでの生糸貿易の取引量は全輸出生糸の過半をも超えていたという。
また、それによって全国各地の商人が生糸を
持ち込み多くの外国商人が生糸買い付けに訪れたともいう。

碑文
生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡
 中居屋重兵衛は、上野国吾妻郡中居村(現在群馬県吾妻郡嬬恋村三原)の出身で、
横浜が開港した安政六年(一八五九)に横浜に進出し、黎明期の生糸貿易を担った貿易商です。
その取引量は全輸出生糸の過半を超え、幕末の生糸貿易は中居屋によって支えられました。
彼の店には全国各地の商人が生糸を持ち込み、多くの外国商人が生糸買付けに訪れたと伝えられます。
 文久二年(一八六二)に刊行された「横浜開港見聞誌」は、中居屋の店の様子について、
商談に訪れる外国人の目を楽しませるために、金網を張った中庭に小鳥を放ち、
座敷の廻りにはガラス張りの大きな水槽を置き、金魚を泳がせていたと記しています。
豪商中居屋の隆盛を伝える記述です。
 中居屋は横浜発展の礎を築いた人物であり、明治時代になると、
その事業は多くの生糸貿易商に引き継がれました。
そして、横浜は日本最大の貿易都市に成長していきました。
現在、中居屋の活躍は遠い過去のものになってしまいましたが、
この地が中居屋重兵衛の店があった場所として永く後世に伝えられることを願っています。
平成十五年十月二十六日
群馬県吾妻郡嬬恋村
中居屋重兵衛顕彰会
 

英一番館跡

 1859年(安政6年)、横浜が開港。
  イギリス系企業のジャーディン・マセソン商会上海支店にいたウイリァム・ケスウィックは、
開港と同時に帆船で横浜に来航し、ジャーディン・マセソン商会横浜支店を設立して貿易を開始した。
  日本に進出した外資系企業の第1号といわれる。
  その場所が、外国人居留地の一番地で、 住民からは「英一番館」の通称で知られていた。

その後、英一番館は、1866年(慶応2年)の慶応の大火で焼失。
  1869年(明治2年)に再建されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で再び焼失し、
神戸に拠点を移した。
1959年(昭和34年)、英一番館の跡地に建てられたのが、生糸・絹産業の振興等を
目的として開館したシルクセンターです。

碑文
安政6年6月2日(1859.7.1)横浜が開港した。イギリス人ウイリァム・ケスウィックは、
開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。
この建物は、ジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が「英一番館」と
呼んでいたのは、この地点である。
横浜市 横浜市観光協会
 
英一番館跡碑
碑文プレート
英一番館(安政6年)
当時の英一番館
現在のシルクセンター
シルク博物館看板

旧生糸検査所(横浜第2合同庁舎)

横浜生糸検査所は、日本から輸出される生糸の品質向上を目的として、明治29(1896)年に
現在の中区本町5丁目付近に建てられました。 

関東大震災で被害を受けましたが、大正15(1926)年に北仲通(現在地)に
遠藤於莵( おと)の設計により再建。約3万1,700m2の敷地に倉庫を含む22棟の建物を有しました。
鉄筋コンクリート造地上4階地下1階で屋上には噴水庭園が設けられ、
市民からは「キーケン」の愛称で親しまれました。
正面上部には蚕の成虫(蛾)をモチーフにした紋章が設けられています。

平成2 (1990)年に横浜市認定歴史的建造物として認定されました。
平成7 (1995)年に高層棟の建設を含む大改築が行われ、
その際に旧生糸検査所の外観を復元した造りになっています。
横浜第2合同庁舎(現在)
入口上方の紋章
帝蚕倉庫
D号倉庫

旧税関事務所遺構

明治32(1899)年より始まった横浜税関の拡張工事に伴い、
大型船舶が直接接岸できる岸壁方式の新港埠頭が造成され、
構内には赤レンガ倉庫(保税倉庫)をはじめとする税関諸施設が建てられた。

貨物取扱などをおこなうこの事務所建築が煉瓦造3階建として建てられた。
その後、大正12(1923) 年に発生した関東大震災で内部を焼失し、建物は復旧されることなく撤去され、
跡地は長く荷さばき場として利用されていた。

 平成6(1994)年に赤レンガパークの整備に際して地中より事務所の煉瓦基礎が発見された。
荷重を分散して伝えるための特殊な煉瓦積みが確認されるなど、
大正時代の煉瓦造建築の基礎構造を知ることの出来る貴重な遺構として、
赤レンガパークの沈床花壇として利用されながら当地に保存されています。


税関事務所(大正3年)
当時の位置
煉瓦基礎遺構

旧横浜港駅プラットホーム

横浜港駅は明治44(1911)年に横浜税関構内の荷扱所として建設され、大正9(1920)年横浜港駅となり、
東京駅から初の汽船連絡列車(岸壁列車)が乗り入れた。昭和3(1928)年プラットホームが設けられ、
華やかな海外航路時代の最盛期を迎えることとなった。プラットホームの遺構は赤レンガパークの
休憩所として保存・復元されています。当時は4号岸壁が客船岸壁でした。

プラットホーム遺構(現在)
当時のプラットホーム(昭和3年)
左写真の位置関係

4号岸壁と「地洋丸」


プラットホームと岸壁列車
当時の新港地区(番号は桟橋No赤線内は陸地)

横浜赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫は、第二期港湾工事の中で、陸上施設のひとつとして建設されました。
   1号倉庫:明治41年(1908)着工/大正2年(1913)竣工
   2号倉庫:明治40年(1907)着工/明治44年(1911)竣工

大正12年9月1日、関東大地震により横浜港の港湾施設のほとんどが壊滅し、
機能は麻痺状態に陥る。完成後、わずか10年余りで震災に遭遇した赤レンガ倉庫は、
2号倉庫は倒壊を免れたものの、1号倉庫は半壊した。その後、1号倉庫はほぼ半部の
大きさに縮小され、内壁に鉄筋コンクリートの補強壁が、付け加えられました。
2号倉庫も耐震性改善のため、起重機の廃止、開口部の改変など手直しが加えられています。
こうして、関東大震災という大きな試練に耐えて、赤レンガ倉庫は生き残ったのでした。

保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、しばらく放置されていました。
2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、
付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の
代表的な観光施設となっています。

右:1号館/左:2号館
赤レンガ倉庫
新港埠頭地区(税関の倉庫群 大正初期)

波止場(象の鼻)

安政5年(1858)、笹井万太郎の請負により、
開港前に築造された西波止場(イギリス波止場)が最初。
元治元年には東波止場(フランス波止場)も完成した。
その後、順次拡張工事を重ね、港湾設備が整えられていきました。

1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の
2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、
その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により東波止場の先端に大さん橋が築造され、
西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は
直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、
象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。
設計者は小泉雅生(小泉アトリエ)。

港の荷役に使われた鉄軌道と転車台、
関東大震災で沈んだ石積など歴史を語る遺構がある。
明治初期の横浜の実業家・原善三郎、横浜港築造に携わった英国人パーマーなど、
「みなとを造った偉人たち」 の業績を紹介する標柱や、
各所に配置された解説パネルは貴重な資料になります。 
1859年(安政6年)
1867年(慶応3年)
1896年(明治29年)

偉人の標柱はこれ

転車台発掘時
2009年(平成21年)
波止場を造った偉人の標柱
転車台と軌道跡

波止場(大桟橋)

大さん橋は中区にある横浜港の港湾施設。1894年に完成した鉄桟橋を前身とし、
税関桟橋、横浜桟橋、山下町桟橋等のさまざまな名称があったが、その後、大桟橋に落ち着いた。
その他、太平洋戦争後連合軍に接収されていた間は、サウスピアと呼ばれ、
明治の末頃から1970年頃までは、メリケン波止場とも呼ばれていた。
前身施設は名実ともに桟橋であったが、2002年に完成した現在の大さん橋は構造的には
「桟橋」ではなく「岸壁」であり、平仮名混じりの「大さん橋」が正式の表記である。

 * 1894年(明治27年)に、英国人技師H.S.パーマーの計画による鉄製の大桟橋が完成。
 * さらに、日清戦争(1894年〜1895年)以後も、貿易拡大や船舶大型化に合わせて拡張工事が
   なされ、その拡張工事が1917年(大正6年)に 完了した。 

横浜港大さん橋ふ頭及び横浜港大さん橋国際客船ターミナルにより構成され、
横浜港における国内及び外国航路の客船の主要発着埠頭である。
横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地としても知られている。
日本郵船のクルーズ客船である飛鳥IIは横浜港が船籍港(母港)であり、大さん橋を拠点としている。
また、横浜港周遊船であるロイヤルウイングや伊豆諸島への離島旅客航路も持っている。
明治30年
明治33〜大正元年)頃
現在の大さん橋

横浜船渠1号ドッグ(日本丸メモリアルパーク)

幕末から明治初期にかけて、いくつかの築造計画が立てられるが、
いずれも実現しなかった。
明治30年、H・S・パーマーの基本設計、恒川柳作の実施設計により
横浜船渠会社の手で第2号船渠が開渠、2年後第1号船渠が完成した。

横浜船渠はかつて横浜市にあった造船所です。
後に三菱重工業と合併し三菱重工業横浜船渠となる。その後、横浜造船所に名称変更。
さらに1983年(昭和58年)に造船所が本牧地区へ移転し、横浜製作所と改名、
跡地は横浜みなとみらい21として再開発された。ドライドック2基は敷地内に残され、
国の重要文化財に指定されている。

このドックは、横浜船渠会社が船の修繕用に建設したものです。
1859(安政6)年の横浜開港後、貿易の拡大と入出港船舶の増加に伴い、本格的な港湾施設の
建設が必要となっていました。港に必要な施設の一つとして船の修繕用ドックの建設が計画されました。
イギリス人技師H.S.パーマーの計画に基づき海軍技師恒川柳作が設計・監督、
1898(明治31)年12月に竣工しました。建設当初の長さは約168mでしたが、
横浜港に入港する船舶の大型化にともない、1918(大正7)年にドックの渠頭部を内陸方向に延長し
長さ約204mとなりました。幅は約39m、深さは約11mです。

ドック建設には神奈川県真鶴産の小松石(安山岩)を使用しました。
 一号船渠は、船が入ったら排水して修繕や検査などを行うドライ・ドックです。
ドックの後方にある扉船を開けて船を入れ、扉船を閉めてドック内の海水を抜き、検査や船体の
水面下部分の修理、外板・船底の清掃や塗装など船の手入れを行います。
一号船渠では、1899(明治32)年5月から1982(昭和57)年12月までの83年間に数千隻の船の
修理を行いました。 横浜船渠会社は、1935(昭和10)年に三菱重工株式会社と合併し、
三菱重工業横浜船渠(後、同横浜造船所)となりました。1983(昭和58)年同横浜造船所移転に伴い、
第一号ドック及びその周囲地は横浜市の所有となり、1985(昭和60)年からは
日本丸メモリアルパーク内で帆船日本丸を係留するドックとして保存活用されています。

この旧横浜船渠会社第一号ドックは、建設当時最大規模を有した明治期の
代表的ドライ・ドックの一つで、明治・大正期のドック築造技術を知る上で価値の高いものです。
また、横浜港の歴史上でも重要な土木構造物です。
2000(平成12)年12月4日に国の重要文化財に指定され、2007(平成19)年11月30日には
経済産業省の近代化産業遺産に認定されました。
 1世紀以上の歴史をもつこのドックは、いつでも見学可能です。干潮時には、壁面の石積みや
渠頭部のレンガ積みの様子を一部見ることができます。
日本丸
日本丸メモリアルパーク
第1号ドック竣工

横浜船渠2号ドッグ(ドックヤードガーデン)

明治19年(1886)に横浜財界人が「横浜桟橋会社盟約」をなし、
その計画を英国人H.S.パーマーに委嘱したことに始まる横浜築港計画です。

パーマーは港の経営には築港事業はもとより船渠と倉庫などの港湾関連施設の整備の
必要性を説いています。これを受けて設立された「横浜船渠株式会社」は、2つの石造りドックを
中心に本格的な船舶修理設備を整え、横浜港発展の基礎を造りました。

第2号ドックは、海軍技師 恒川柳作氏の設計により、明治29年(1896)に竣工。
 現存する商船用石造りドックの中では日本最古となります。
以来、明治・大正・昭和を通じて港町「横浜」の発展と共に活躍してきたこのドックは、
昭和40年代に入り、船の大型化、小型船修繕の中小造船所への移行等により使用頻度が急速に低下。
昭和48年にその機能を停止することになりました。
そして平成5年(1993)、横浜ランドマークタワーの敷地内に再生され、
平成9 年(1997)12月に国重要文化財に指定されました。

全長: 約107m 上端幅約29m 深さ: 約10m 石材の種類
: 真鶴、伊豆地方の堅石である本小松石、新小松石、及び六ヶ村石

石積方法
: ブラフ積み(直方体の石の長い面と短い面を交互に見せながら積み上げていく方法。
頑丈な石の壁を作れる技術は明治時代に西洋から学んだもの。 

横浜船渠はかつて横浜市にあった造船所です。
後に三菱重工業と合併し三菱重工業横浜船渠となる。その後、横浜造船所に名称変更。
さらに1983年(昭和58年)に造船所が本牧地区へ移転し、横浜製作所と改名、
跡地は横浜みなとみらい21として再開発された。
ドックヤードガーデン
ドックヤードガーデン
横浜船渠全景(1935年以前)



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