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  日本ガス事業発祥の地 近代下水発祥の地
  ガス灯発祥の地 近代水道発祥の地
  街灯点火の地 日米和親条約締結の地
  アイスクリ−ム発祥の地 電信創業の地
  近代街路樹発祥の地 電話交換創始の地
  写真開祖の地 日本バブテスト発祥の地
乗合馬車発祥の地 塗装業発祥の地

日本ガス事業

1870年(明治3年)、高島嘉右衛門は、県庁からガス灯の建設協力を頼まれ、
「日本社中」を結成。高島は上海でガス灯建設を行っていたフランス人技師
アンリ・プレグランを招いて横浜でのガス事業計画を進めました。

工場は伊勢山下石炭蔵前に建設することとなり、1872年(明治5年)9月に完成。
同月26日、神奈川県庁付近および大江橋から馬車道・本町通りまでの間に
ガス灯十数基を点灯しました。これがわが国のガス事業の発祥です。

高島嘉右衛門のガス工場は、1875年(明治8年)に町内会に譲渡され
「横浜市瓦斯局」となり、現在は「東京ガス」になっています。

日本社中があった場所は現在の本町小学校ですが、校門入口には文化財として
1本のガス灯が残されており、そばには「日本最初のガス会社跡」の記念碑があります。

現在の地名の「高島」は高島嘉右衛門の功績から名前が付いています。
横浜駅周辺から地下鉄高島町駅一帯です。
鉄道建設で本人が埋め立てた土地エリアが「高島」です。


[日本ガス事業発祥の地]碑
場所:桜木町駅のそば・本町小学校校門前。


関内・馬車道にはガス灯および記念碑が建てられています。


記念碑の説明文
〜日本ガス事業発祥の地〜
明治3年、高島嘉右衛門によって中区花咲町の
この地に、ガス会社が設立された。
 高島はフランス人技師アンリ・プレグランを招いて、
明治5年9月29日、神奈川県庁付近および
大江橋から馬車道本町通りまでの間に
ガス街灯十数基を点灯した。
 これがわが国ガス事業の発祥である。
ガス灯発祥

1869年(明治2年)頃、太田町の人々がガス灯の建設を神奈川県に出願しましたが、
これを県が受け入れず、翌年の1870年(明治3年)には
ドイツ領事であるシュルツが経営するシュルツ・ライス商会が再度ガス灯の建設を出願。
しかし、同年設立された「日本社中」という会社がこれに対抗し、ガス事業を出願しました。

外国の会社と日本の会社の間でガス灯の建設をめぐり、競争が起こったのです。
困惑した県は、居留外人の投票という方法で権利を決定しました。
勝ったのは日本社中であった為、同社はフランス人技師のプレグランと契約し、
花咲町5丁目にガス工場を建設しました。

そして1872年(明治5年)9月、大江橋より馬車道、本町通りにかけて
日本初のガス灯がともりました。



[ガス灯発祥の地]碑
場所:馬車道の関内ホール前。



記念碑の両側には、
当時のままに復元されたガス灯が立っています。


記念碑の説明文

〜日本で最初のガス灯〜

安政6年(1859年)に開港場となって以来、
横浜は西洋文化の玄関口となりました。
馬車道を起点にして全国に拡がったものも
数多くあります。
ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の
「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、
点灯され、これが日本における最初のガス灯と
なりました。
柱部は英国グラスゴー市から輸入し、
灯具は日本人職人により製造されたと言われます。 
このたび、横浜市市民文化会館(関内ホール)
新築完成を祝って、当時の型をモデルとした
ガス灯を復元設置しました。 
壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を
転写したもので、明治末期の馬車道です。

昭和61年9月27日
馬車道商店街協同組合

山下公園入口のガス灯


当時の様子。(Y150看板より)


街灯点火

日本で初めての街灯は、1870(明治3)年9月に、実験的に海岸通りに点火された石油灯で、
その2年後1872年(明治5)年9月に大江橋〜馬車道、本町通りにかけて
日本最初のガス灯が灯りました。

電灯点火が最初とされるのは、1878(明治11)年3月25日に東京虎ノ門にあった
工部大学校(現:東大工学部)大ホールでのアーク灯の点火である。

その日は中央電信局の開業式でもあり、アーク灯が全国に広まるに相応しい
電気記念日とされている。アーク灯とは、電気溶接のときに強い光が出るのと同じ現象で、
ガス灯や石油灯に比べると、はるかに明るいものであった。

しかし、アーク灯はバッテリーを多数使用しなければならず、非常に高価なものであった。
また、点灯中に電極が少しずつ消耗するため、電極の間隔が次第に広くなり、
輝きが弱くなって消えてしまうものもあった。
寿命は100時間程度しかなかった。

その後、現在のように送電線で電力を送ることにより点灯する固定式の電灯が登場する。
1886(明治19)年の日本最初の電力会社・東京電灯会社の開業に遅れて、
その3年後に横浜には横浜共同電灯会社が設立された。
1890(明治23)年、横浜共同電灯株式会社が中区常盤町に火力発電所を建設。
同年10月1日に横浜市内の約700の電灯と街灯が一斉に点灯された。
これが神奈川県で初めて電力供給が行われたものである。

それを記念して建てられたのが下記掲載の「ハマの街灯点火の地」碑です。
それを記念して建てられたのが「ハマの街灯点火の地」碑です。
碑は「勝烈庵・馬車道総本店」の玄関の右側にあり、
店の前には山下公園に埋もれていた街灯が再建されています。

[ハマの街灯点火の地]碑

勝烈庵・馬車道総本店の玄関の右側に
建っています。

勝烈庵・馬車道総本店の玄関
建っている街灯。
この街灯は山下公園の門灯でした。
瓦礫の中から発見され、昭和40年に
ここへ建てられました。


神奈川県電気発祥の地碑
関内仲通り(ベイスターズ通り)「東京電力関内変電所」前にあります。
アイスクリ−ム発祥

1869年にそれまで氷水店をしていた町田房三が始めて
アイスクリームを売りました。
日本人には、なじみがなく、外国人が食べてるのを遠くで見ているだけでした。
しかし翌年、伊勢山の祭りに販売したところ、大変に繁盛しました。
それ以降から同業者が出てきました。

「アイスクリームの日」の5月9日にはチャリティー募金をした人に馬車道で無料配布されます。
無料配布は1978年に始まりました。(現在は募金した人のみに配布されています)
11時頃から。無くなり次第終了です。
配布場所:馬車道通りにある関内ホール前
尚、当日は馬車道通りでワゴンセールも開催されます。


[アイスクリーム発祥の地]碑
「太陽の母子像」
場所:馬車道関内寄り

1976年(昭和51年)日本アイスクリーム協会より、
アイスクリーム発祥の地を記念して、
「太陽の母子像」が寄贈されました。

これが「アイスクリーム誕生の地」碑である。
気が付く人は少ないです。


初めて日本にアイスクリームの
文明開化の波が来たのは遺米使節一行が
横浜を船出したときであった。

その時の柳川当清による日記に「珍しきものあり。
氷を色々に染め、物の形を作り、
是を出す。味は至って甘く、口中に入るるに
忽ち溶けて、誠に美味なり。
之をアイスクリンといふ」と記してあるという。


記念碑の説明文
〜太陽の母子〜
  「横浜沿革史に、明治二年六月馬車道通
常盤町五丁目ニ於イテ町田房造ナルモノ
氷水店ヲ開業ス、と誌るされています。
日本のアイスクリームの誕生です。」

当時の味を忠実に再現したのが名物の
『馬車道あいす』。材料は卵と砂糖、牛乳のみ。

ほのかな甘さと卵黄の香り、
さらりとした口どけが印象的です。

「横濱馬車道あいす」




馬車道通り

近代街路樹

街路樹の最初は、馬車道沿道に植えられた柳と松でした。
人口過密の状態にあった横浜において、その景観を美しく見せるというのが
第一の目的でした。1867年の事です。

また、それを受けた馬車道沿いの色々な店が、
競って自分の店舗前に、この柳と松を植樹していった為、
馬車道の景観はたちまちのうちに美化され、後に日本初のガス灯が点灯されると、
街路樹は更に美しく映え、道行く人々の目を楽しませたのでした。

これ以降、日本の街路樹は欧米諸国の影響を受けて、
樹種の選択,植栽手入法の改良などにより,著しい進歩と普及をとげました。



[近代街路樹発祥の地]碑

この碑は、1984年(昭和59年)6月2日、
開港120周年を記念して建立された。

記念碑の説明文

〜近代街路樹発祥の地〜

「街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の
景観的魅力を向上させる為に発達したものであり、
参道並木、街道並木など、いわゆる地方並木とは
区別されている。
日本における街路樹は、明治以後、欧米都市の
影響を受け、樹種の選択、
植栽手入法の改良などによって、
著しく進歩、普及した。1867年(慶応3年)、
開港場横浜の馬車道では、各々の商店が競って
柳と松を連植した。
これが、日本での近代的な街路樹の先駆となった。
1872年(明治5年)になって、馬車道に
日本最初のガス灯が点火されると、
この街路樹はさらに美しく映え、
夜の涼を楽しむ人々で賑わった」

柳と松が選ばれた理由は、それぞれが環境の変化に
強く、また育てやすい樹種だったからとされている。

今でもJR関内駅のそばには
「近代街路樹発祥の地」と刻まれた碑が立っている。

尚、街路樹は、街道並木や参道並木等の、
いわゆる地方並木とは違うものとされ、
区別されている。


場所:馬車道広場

馬車道広場


写真開祖の地

幕末の1859年に横浜港が開港し、その翌年1860年にアメリカ人O.E.フリーマンが
横浜に初の写真館を開いたのが始まりです。

その後、初の日本人写真師とされる下岡蓮杖は、1862年に横浜に写真館を開業しました。
彼は1823年(文政6年)伊豆下田生まれ。当初は絵師を志して江戸に出てきましたが、
そこで外国から入ってきたばかりの写真というものを見て興味を持ち、
写真術の習得を目指します。

彼は横浜で出会ったアメリカ人の写真家ジョン・ウィルソンからカメラや
スタジオを譲り受け、写真館を開業するが失敗。 当時の日本人は写真を撮影すると
寿命が縮まるとしてこれを嫌い、写真というものに馴染めず、客はいずれも外国人が大半でした。

やがて時代とともに迷信は消え、彼も苦労の末に弁天通りに再出店します。
その後一旦故郷の下田へ帰るが、再び横浜に出て、馬車道太田町角にも店を構え、
店舗は次第に栄えていきました。



[日本写真の開祖]碑

下岡蓮杖は長崎の上野彦馬とともに日本の
商業写真師の草分けとして知られているが、
この碑は彼の写真館が
弁天町にあったことから彼の功績を記念してここに
設置されています。

場所:馬車道の県立歴史博物館前。

下岡蓮杖は伊豆の下田に生まれており、
開港後に下田に着任したハリスの給仕となって、
オランダ人通訳ヒュースケンから写真を学んだのだと
云われています。

下岡が弁天通り沿いに写真館を開いたのは
上野彦馬が長崎に写真館を開いたのと
ほぼ同時期です。

当時の写真 (Y150看板より)



当時の下岡蓮杖の写真館。(Y150看板より)


乗合馬車

横浜開港にともなって、関内近辺は外国人の居留地となり外国人達は、
その関内の長さ約1kmの道を拡張する事を要請し、それが実現して街路樹等が整備されると
道を馬車で行き交うようになりました。

万国橋付近に船が停泊し荷物や人々を馬車などが吉田橋付近まで運んでいました。
当時の人々はその光景に驚き、「異人馬車」という呼び方をしてその姿を珍しがったといいます。
そして、馬車が通る道という事で、その通りを、「馬車道」と呼ぶようになったのです。

道路脇には、当時の交通手段であった馬や牛のための給水場として、
牛馬飲水槽が設けられていました。ここで馬や牛は水を飲み、休憩を取った訳です。



[牛馬飲水槽]
場所:馬車道・十番館(レストラン)。



[牛馬飲水槽の説明板]

牛馬飲水槽の説明文

〜牛馬飲水槽〜
この牛馬飲水槽は大正6年、当時横浜の陸上交通の
主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会が
現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。
このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前久保山の
ガ−ド下にも設置し牛馬の途中休憩所としました。

また荷馬車協会には三千頭の牛馬がいて
夏ともなればしゃれた麦わら帽子をつけ気どった足どりで
荷物の運送をしました。

昭和四十五年十月

横浜史料保存会


[馬車道十番館]
入口右側に写っているが牛馬飲水槽です。


当時の馬車。(Y150看板より)


「馬車道まつり」でのイベントです。試乗できます。


近代下水

横浜の下水道については、都市計画で数々の功績を残したR.H.ブラントンの活躍があります。
ブラントンの下水道計画は、まず横浜の旧外国人居留地から始まりました。

内容は道路の中央地下2.5フィート以下のところに下水管を埋没し、
7ヶ所から下水を海に放流するというものでした。設計は1869年(明治2年)、
完工は1871年(明治4年)の事です。排水管は陶製日本人の手により作られました。

早速、これを地中に埋め、土をかぶせて地ならしをしたのだが、陶管に圧力がかかり、
土管の多くが破損してしまったため、一旦これを除去しなければならなかった。
これを教訓として、その後、土管の製造には工夫が加えられ、より耐久性のあるものが完成し、
この問題は解決しました。

そして10年が経過し、ブラントンの陶管下水道は容量不足となったため、
三田善太郎の計画により、下水管は全面的に煉瓦造へと形を変えていったのです。

設計は1880年(明治13年)で、工事は一期・二期に分けて進められ、1887年度に完成しました。
この時の下水管は断面が卵を逆さにしたような形状をしていたので、卵形管と呼ばれました。

明治中期からは鉄筋コンクリート製の下水管が導入され、煉瓦造のものは次々ととって
変えられていきました。尚、鉄筋コンクリート製の下水菅が初めて採用されたのは、

新港埠頭において行われた下水道工事でした。煉瓦造の卵形管は後年の道路工事などにより、
横浜のいたるところで発見されており、市内に多く展示され、その歴史を語っています。



[卵形下水管]
場所:山下町の横浜市中土木事務所の玄関。

説明文

〜横浜の下水管の始まり〜

ここに展示の構造物は、昭和56年2月に
中区山下町37番地先から発掘された卯形下水管である。
明治3年に関内居留地内全域に陶管を埋設した。
これが、わが国最初の近代的下水管であった。
その後、明治14年からこれをレンガ造りの下水管に
造り変えた。
その断面が卯形をしているので卯形管と呼ばれる。
この時の卯形管の一部は、中華街南門通りで
現在も使われている。


[明治時代の下水管]
説明文
 この陶管は明治時代に、明治32年まで関内居留地であっ
た地域(現在の中区山下町と日本大通り)に埋設された下水
管の一部で昭和57年2月に山下町のシルクセンター前で発
掘されたものです。

場所:山下町の横浜市中土木事務所の玄関。

これは今は展示されてないです。



[レンガ造りマンホールと下水管]
レンガ造りマンホールと下水管・ガラス越しに
見ることが出来ます。





場所:開港広場


写真の説明文

 〜明治10年代に築造された
レンガ造りマンホールと下水管〜
   (国登録有形文化財)

明治14年から20年にかけて、旧関内外国人
居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で
下水道改造工事が実施された。

卵形レンガ管と陶管の下水道が整備された。
その下水幹線7本とマンホール37ヶ所は
レンガ造りで、材料のレンガは、
東京府小菅の東京集監のレンガ工場に注文して
築造されたものです。

設計者は東京大学理学部第一回卒業生、
当時神奈川県土木課係用掛の三田善太郎氏で、
これは日本人が設計したわが国最初の
近代下水道と言えるでしょう。

このマンホールは明治15年頃築造されたもので、
昭和57年4月にこの公園の整備中に発見され、
当時のままの状態で保存されています。
平成10年9月に下水道施設ではわが国初めての
国登録有形文化材に登録されました。

  横浜市下水道局 平成10年9月


当時の説明。(Y150看板より)


近代水道

1883年(明治16年)3月に渡来したヘンリー・スペンサー・パーマーは、
神奈川県の依頼を受け3ヵ月かけて分析・調査等を行い、多摩川及び相模川に目をつけ、
そこから横浜までの導水に関して2つの工事計画を打出し、

報告書を県に提出したが、実行には至りませんでした。そして翌年の1884年(明治17年)12月、
パーマーは再び神奈川県に請われ、水道工事のいっさいを任されました。

水道器具等をイギリスより購入し、水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の
道志川と決定したパーマーは、野毛山貯水池に至る約44kmに及ぶ水道工事を
1885年(明治18年)4月に開始しました。 



パーマーの計画通り工事は順調に進み、横浜は水の悩みから解放されました。
試行錯誤の末、1887年(明治20年)9月、洋式水道が完成し、
山梨県道志村からの清涼な水が野毛山配水池から市街へと配水され、
横浜市民の喉を潤しました。これが近代水道の始まりです。

高度経済成長、横浜市の人口増加により水道使用量が急増。
新たな配水池が必要となり、1967(昭和42)年に配水池は閉鎖され、
旧配水池の隣に「新野毛山配水池」を造り、徐々に役目を移行していきました。

野毛山公園内に旧野毛山配水池のドームが2つ見ることができます。


「近代水道発祥の地」の碑

場所:野毛山公園内。

パ−マ−の銅像の下に、創設に貢献した人達
をたたえる碑文が書かれています。
横浜水道創設100周年を迎えた昭和62年4月に
建てられました。


旧野毛山配水池のドーム
野毛山公園内に2基あります。


[日本近代水道最古の水道管]

場所:野毛・ちぇるる(JRA馬券場のそば)広場

記念碑の説明文

〜日本近代水道最古の水道管〜

 明治20年(1887年)に最初の近代水道が
イギリス人パーマーの指導によりここ横浜の地に
誕生しました。

相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、
この地に運ばれた水は浄水され、市内に給水されました。
 この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が
埋設されていて今も働き続けています。 

当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、
パーマーを始め、多くの先人たちの
偉業を讃え建立したものです。


[獅子頭共用栓とブラフ溝]
場所:開港資料館 中庭

説明文

〜獅子頭共用栓とブラフ溝〜

 この共用栓は、日本最初の近代水道となった
横浜水道(明治18−20年)創設時市内各所に
配置されていたものである。

当時家庭内に蛇口を引く例は少なく、路頭の
共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、
創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から
輸入された。

 また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の
道路遺構に使用されていた石材を再利用した。









                     当時の説明。(Y150看板より)


野毛山公園の芝生広場の地下が現在の貯水池になっています。


日米和親条約

1854年(嘉永7年)2月10日、ペリー提督は随員を従えて横浜に上陸しました。
浦賀来航の翌年のことです。ペリーは横浜応接所で日米和親条約締結のための会談を行った。

上陸日を初回として計4回に及ぶ会談と書面による交渉の結果、漂流民の救助・引き渡し、
アメリカに物資(薪水・食料・石炭)を補給するための伊豆下田・函館2港の開港、
下田に総領事を置くことなどを取り決め、3月3日に日米和親条約締結に至りました。

この日米和親条約の締結交渉が行われた横浜応接所は現在の神奈川県庁本庁舎の辺りで、
その近くにあった水神の森は、現在の横浜開港資料館辺りであると考えられています。
水神社はその後移転し、跡地にイギリス領事館ができました。

玉楠の木は楠と同じクスノキ科に属するタブノキ(椨の木)ですが、
通称「たまくす」と呼ばれています。「たまくす」は、かつての横浜村の漁師たちが帰港の
目印としていたとも言われ、ずっと横浜の地を見続けてきた横浜の歴史の生き証人とも言えます。

「たまくす」は、ペリー・スクエアと名付けられた横浜開港資料館の中庭で
今も豊かな葉を繁らせています。


[日米和親条約締結の地]碑
場所:開港広場

記念碑の右にある説明文

〜日米和親条約締結の地〜

安政元年(1854年)2月から3月にかけて、
日米代表が横浜村の海岸で会見、
和親条約を結んだ。

これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、
本市の誕生の遠因ともなった。
歴史的舞台となった応接所のあとは、
現在の神奈川県庁の付近である。

開港資料館
日米和親条約締結の地として有名な玉楠の木を
中庭に抱き込むように建物が造られています。



開港広場は開港資料館の隣にあります。


ペリー派遣の目的。(Y150看板より)


条約締結時の饗応の席。(Y150看板より)


開港広場全景

電信創業

 「明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所に
設けられた「傳信機役所」を結ぶ 約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、
同12月25日に業務を開始しました。これが、我が国における公衆電気通信の最初であります。
 
当時は珍しいものであったので何かの魔法かと思い、石を投げたりする人もいたそうです。
また、不気味に思えたのか電信線を切断する人も多く技術者の手を負っていました。



[電信創業の地]の碑

場所:横浜地方検察庁の入口左側。


説明文

〜電信創業の地〜

明治2年(1869年)12月25日、この場所にあった
横浜電信局と東京電信局の間に、
わが国ではじめて
電報の取り扱いが行われました。

昭和38年12月25日
日本電信電話公社

[電信創業の地]の碑が建っている横浜地方検察庁


電話交換

明治12年電信線を利用横浜電信分局と本省と電話通話実験に成功します。
その後電話事業を官営にするか民営するか、議論が別れてましたが
明治22年に至って逓信省の管轄下、官営で実施する事が決まりました。.

この年の1月1日遠距離通話試験と電話知識普及の為、東京と熱海間の公衆電話取り扱いが
開始され、翌年23年4月19日電話交換規則が公布されました。.

6月には横浜電話交換所が設置されて加入者の募集が始まり、
明治23年(1890年)12月16日、において、横浜と東京間及び市内に我が国初めて
電話交換業務が交換手4人で開始されました、加入者は東京155人、横浜42人で
予想をはるかに下回った為、加入者以外の利用を図る為電話局内に公衆電話も設けられました。



[電話交換創始の地]の碑
場所:「横浜電話交換局」だった場所のビルの壁。






当時の電話機 (Y150看板より)


<左の画像の拡大>

開始時の加入者は東京155人、横浜45人だった
そうです。


説明文

〜電話交換創始の地〜
明治23年(1890年)12月16日、
この場所にあった横浜電話交換局において、
横浜と東京間および市内にわが国で初めて
電話交換業務が開始されました。

 京橋(東京)にあった公衆電話BOXを再現。横浜山手のエリスマン邸横の広場にあります。

BOX内の説明文
明治23年(1890)12月16日、日本で最初に横浜-東京間で電話交換業務が開始された。
そして時は流れ、平成2年(1990)12月16日。丁度、電話創業100年にあたります。
この「電話100年」を記念して、明治33年京橋(東京)に初めて設置された
”公衆電話BOX”をここに再現しました。(当時の公衆電話は「自働電話」と呼ばれていました。
過去から今日までの100年。そして未来への100年。この通過点の記録として、
そして未来へのよりよいコミュニケーションを願って、この公衆電話を設置しました。


日本バプテスト発祥の地

19世紀中に、カトリック教会、プロテスタント諸教派、正教会など、
伝統的なキリスト教会のほとんどが、日本に伝道して教会をたてました。
米国バプテスト宣教師同盟の宣教師 ネーサン・ブラウン,ジョナサン・ゴーブル両夫妻は、
1873年(明治6年)3月2日に横浜山手203番の地に、教会堂(今日の日本バプテスト横浜教会)を
設立しました。 日本における最初のバプテスト教会であり、2番目のプロテスタント教会です。
教会のメンバーは四人の宣教師夫妻だけで、日本人信徒はいなかったそうです。
彼らは、2月7日に日本に着いたばかりであり、 日本人信徒がいなくとも、仮住まいの家であろうとも、
一日も早く「神の家」である教会を日本に建てることが第一と考えたそうです。
その後この教会堂は火災で消失し、明治27年(1894)A・Aベンネットが横浜第一バブテスト教会と
称し、教会堂を代官坂の途中、山手75番地(現在碑がある場所)に移転しました。



[日本バブテスト発祥の地]碑

場所:元町から山手に登っていく代官坂の途中左側。


この場所は、以前は横浜外国人居留地の山手75番地
に当たります。横浜第一パプテスト教会があったところです。


日本バブチスト発祥の地碑のある坂の対面に
プレ−トがあります。

〜代官坂〜

この坂は、山手の丘を越えて北方・本牧へ
行く道で、箕輪坂と称していましたが、
坂の途中この地に横浜村名主
石川徳右衛門が居住していたことから、
代官坂とよばれています。

幕末開港前後の当主徳右衛門は、
日米和親条約締結のための応接場の設営、
食糧、その他の設備一切を掌りました。

嘉永7年(1854)3月9日(4月6日)ペリ−
が横浜村に上陸し住民の暮らしぶりを
視察したおり屋敷を訪れ、徳右衛門が
供応した様子が「ベルリ提督日本遠征記」に
記されています。その後徳右衛門は、
横浜町惣年寄となり町政を担当しました。

明治7年(1874)、坂の上(山手町75番地)
にバブテスト自由伝道教会の
ネ−サン.ブラウンが教会堂を建て
布教の拠点としましたが、
火災で消失しその後、明治27年(1894)
ベンネットが横浜第一バブテスト教会と
称し、教会堂を坂の途中
(現在 元町2丁目80番地)に移転
しました。

大正12年(1923)寿町に移転し、
跡地に「日本バブテスト発祥の地」の
祈念碑を建立しました。

社団法人 横浜国際観光協会

 
塗装業

日本における塗装の始まりは、1854年(嘉永7年)2月13日、ペリー再来航の際、
林大学頭が江戸の渋塗職人町田辰五郎に通商交渉を行う横浜応接所
(現在の横浜外交資料館付近)建物外部のペンキ塗装を命じて、

これがきっかけで、町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと、
外国公館(領事館・公使館)塗装の特権を与えられました。

1856年(安政3年)にアメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を領事館と定め、
本覚寺をすべて白ペンキで塗った。これを機に、
本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されました。

1865年(慶応元年)に大工のT.S.スミスが塗装業を始めました。日本人では伊藤幸太郎と
桜井鉄五郎がペンキ塗装業を始め、1872年(明治5年)鉄道建設の停車場の工事を請け負った。

また、元町公園にある我国塗装発祥地いわゆるペンキ発祥の記念碑と、
元町公園とは何ら関係がない為、何故元町公園に建てられたか、いまだに分かっていません。



[塗装業発祥の地]の碑

場所:元町公園内。


[元町公園]

塗装業は慶応元年(1865年)3月4日付「ジャパン・ヘ
ラルド」に、「サイン・ペインター」の広告が掲載されてい
る。これが塗装業の広告第一号。
(資料:横浜開港資料館)

 1866(慶応2)年11月26日、関内で大火が発生し、それ
以後西洋建築の建物が建てられ、
ペンキ塗装の需要も高まっていったそうです。


広東省順徳県出身で、塗装の技術を上海で学んだ
招相記は谷戸坂の山手184番地に塗装店「相記」を
開き、多くの職人を抱えて、洋館や静養家具のほか、
船体なども手広く扱っていた。

 塗装業・西洋建築の分野で、華僑の人々が
横浜の街づくりに大きく貢献した。
(資料:横浜開港資料館)

「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されている本覚寺
横浜市神奈川区、曹洞宗 青木山本覺寺(本覚寺)


この本覚寺はアメリカ領事館でもありました。


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