太平洋航路の第一船号の寄港 気象観測
入港商船第1号 潜水
外国人商人の第1号 スケート
西洋時計の輸入 ボートレース
海外渡航 ヨットレース
移民 射撃
義足 陸上競技

太平洋航路の第一船の入港

1867年1月24日(慶応2年12月19日)、
太平洋横断の定期航路の第1船コロラド号が横浜に入港した。
アメリカの太平洋郵船会社がサンフランシスコ−香港航路を開設。
その往復の途中に横浜に寄港することになったのである。太平洋航路を確保するというアメリカの
長い間の夢が実現した、歴史的な出来事であった。

サンフランシスコでは、1866年の大晦日に、新航路の開設を祝う盛大な晩さん会が催され、
あけて1月1日、コロラド号が最初の航海に出発した。同船は3750トンという最大級の外輪船で、
一等船客約300人、二等約200人、三等は1000人単位という収容力を誇っていた。
石炭をたきつづけて入港した同船の、横浜での下船客は42人。貨物、郵便も積んでいた。
翌25日、香港に向けて出港、31日に香港に到着した。
復路は、2月17日に香港出港、27日横浜出港、3月20日にサンフランシスコに帰港している。


コロラド号

入港商船第1号

開港前日の1859年6月30日(安政6年6月1日)、
ハード商会の派遣したアメリカ船ワンダラー号が入港、
これが第1号である。同商会の代理人、ヴァン・リードが搭乗していた。
条約発効前なので翌日の6月2日に入港手続きを行ったらしい。

開港当日にはオランダ船シラー号が入港している。

氷川丸

外国人商人の第1号

1859年(安政6年)7月16日、オランダ商人が幕府の用意した
外国人貸長屋を借り受けて開業した。
これが第1号である。

シラー号で来日したルイス・クニフラーと思われる。
クニフラーはハンブルグの商人でオランダの保護下ハタビアから
来日、長崎にクニフラー商会、横浜にその支店を開設する。
後継商社のイリス商会は現在も健在。

ジャーディン・マセソン商会を第1号とするのは間違いだそうです。

ルイス・クニフラー

西洋時計の輸入

記録によって確かな、横浜最初の時計修理の技術者は、
日本人から「トケイヤ フヲルコ」と呼ばれたアメリカ人フォークで、
1859(安政6)年末にはすでに横浜にいたことが知られています。

西洋時計が本格的に輸入されるようになったのは、1864(文久4)年にスイス人ファヴルブラントが
現在の山下町84番地に商館を開いてからである(のち175番地に移転)。
彼はその前年に、スイスの時計業組合会長を務めていたアンベールを団長とする
使節団の一員として来日している。1866(慶応2)年には、
やはり団員の一人だったブレンワルトが53番地にジーベル&ブレンワルトという商社を設立し、
時計の輸入と生糸の輸出に乗り出した(翌年90番地に移転)。

ファヴルブラントは明治時代の初期に、横浜の町会所や郵便局をはじめ日本各地に
時計塔を設置するとともに、『時計心得草』という啓蒙書を発行。また日本人時計師の
スイス留学を斡旋するなど、時計産業の功労者として知られています。

江戸時代の日本では、かなり精巧な時計が作られていた。
しかし、開港後もたらされた懐中時計の精密さに日本人は目を見張ったといいます。
現在の懐中時計
ファヴルブラント(白い服)

海外渡航

万延元年正月に渡米した幕府の使節団、
総勢77人を乗せた米艦ポーハタン号が横浜を出港した。
安政5年6月、ポーハタン号上で調印された日米修好通商条約の批准書交換が目的でした。
これには食料や道具を運搬する為、咸臨丸が同行した。


咸臨丸
庶民では、翌年香港へ英公使オールコックに同行した「小使」が最初。
慶応2年4月に海外渡航が解禁、5月に花田新助が仮免許で
米領事フィッシャーの夫人と共にアメリカに渡った。

正規の旅券第1号は10月欧米巡業に旅立った軽業師隅田川波五郎が取得した。

移民

1868年(明治元年)5月2日、42名を乗せた
スワロ―号がグァム島へ向けて出港した。
これが移民の第1号です。
横浜のロトムント・ウイルマン商会と口入屋の木村半兵衛が計画したものでした。

直後の17日、ハワイへ向けて150名が出航した。
ハワイ総領事ヴァン・リードが幕府の許可を得て実施したものだが、
新政府が許可しなかったので外交問題となった。
グァム島
ハワイのサトウキビ畑

義足

慶応3年(1867)9月、ヘボンが俳優沢村田之助の脱疽の治療の為
右足を切断、翌年アメリカから義足が届いた。
田之助は義足を装着し、横浜の下田座でお礼興業を行い、
大評判になったという。

しかし病状がさらに悪化し、再度ヘボンの手で左足と手指の左2本、右3本を切断した。
田之助は廃業を決意し、明治5年正月24日から3月まで、
「一世一代名残狂言」を行った。
ヘボン
ヘボン邸

気象観測

ヘボンは来日に際してコロンビア大学の委嘱を受け気象学会の会員として、
日本の気象を報告するために、観測機器を携えてきた。
神奈川到着は1859年(安政6年)10月17日、
翌年3月6日付けの書簡には1859年11月から4カ月分の気象観測結果が記されている。

  
 ヘボン夫妻                 横浜地方気象台(山手)

また1860年、ロイヤル・アジアティック・ソサエティ北中国支部の例会で
1859年12月10日から18日にかけて、医師のダッガンが横浜で
行った気象観測結果が報告されている。

潜水

慶応2年、増田万吉がイギリスの爆弾倉庫船の海底修理をしたのがきっかけで
オランダ人のヘクトに潜水技術を学び、明治5年(1872)頃、開業した。

明治22年に内外潜水業請負会社を設立、明治28年には
沈没戦艦引上合資会社の潜水部主任となった。
 

スケート

居留民の最初のリンクは石川の崖下にあった。
当時の「横浜はなし」に居留地民の生活にふれて次の様に触れている。

「冬は厚氷の上にて、足陳といふことあり。是は躰をかためる為なりとそ、
但し沓のそこにすじ金あり。腕組みして、躰を浮かして五六間より七八間程両足を
揃えて走るなり。猶途中にてとまるもあり。途中より廻りて
又この此方へ帰るもあり。是則ちよろけてころばぬ術なり。」

明治9年(1876)頃、根岸射撃場脇の水田の所有者である青木安兵衛らの
農民がリンクを設けるようになり、明治11年末に結成された横浜スケーティング・クラブが賃借した。
 

ボートレース

1863年(文久3年)10月5・6日に開催された
グランド・ヨコハマ・インターナショナル・レガッタが最初。
初日は競漕、二日目は帆走のプログラムであった。
公使団や婦人のためのスタンドが設けられ、日本人も多数見物したという。

最初は軍人が主体だった。明治4年頃から居留民による競技団体が組織され
最終的には横浜アマチュア・ローイング・クラブに統合された。


ヨットレース

ヨットレースは最初ボートレースに付属して行われていたが、
明治19年(1886)10月、横浜セイリング・クラブが結成され、これ以降盛んになる。
明治27年には横浜ヨット・クラブに改称、この年には
モスキート・ヨット・クラブもできた。

横浜のヨットマンとして知られて人物にT.M.ラフィンがおり、
明治41年にはクラブの会長に就任している。


射撃

慶応元年(1865)根岸村字立野(現在の大和町商店街)に射撃場が設けられた。
日本人からは「鉄砲場」と呼ばれるようになった。
この年のうちにスイス・ライフル・クラブが結成されたが、会員をスイス人に限定されていたので
これとは別に横浜ライフル協会が組織され
1865年(慶応元年)11月8日には横浜ライフル協会による最初の競技会が開催された。

陸上競技

1864年(元治元年)5月5・6日、会場は旧横浜新田の一角、英領事館付属監獄のグランドで
開かれた横浜フィールド・スポーツが最初です。
種目は徒競争、高跳び、棒高跳び、ハンマー投げ、三段跳びなど
現在と変わらない種目と並んで、クリケット・ボール投げ、重装備行軍競争、サック・レースと
いった競技もあった。

駐屯軍将兵が主体だった。明治5年には居留民による
横浜アマチュア・アスレチック協会(YAAA)が結成される。



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