西洋料理店(レストラン)

わが国最初の日本人による西洋料理店、つまりレストランは、
1869年(明治2年)8月、大野谷蔵という
長崎生まれの人物によって現在の末広町2丁目で開業されました。
当然の事ながら、客は殆ど外国人であり、日本人客はまれでした。

その数少ない日本人客も、西洋料理の食べ方を知らない為、スープをこぼしたり、
また、肉を食べる時、ナイフで食べ、くちびるを切ってしまったりしてました。

こんな状態だったから、営業としては失敗してしまいました。
だが、場所を相生町5丁目に移し、
開陽亭という名で再度営業をしたところ、序々に日本人にも受け入れられ、
特に牛肉を使った、いわゆるビフテキ料理は独特の味で大評判になりました。

記録上の最初のレストランは1862年(文久2年)12月、ジョージが居留地49番で
ゴールデン・ゲイト・レストランを開業している。

現在の末広町2丁目辺り


牛鍋屋

最初に牛肉を食べ始めたのは横浜などの居留地の外国人や、駈屯していた兵士たちでした。
当初、外国人たちは、付近の農家から牛を購入しようと試みましたが、農民たちは、
食用にされることを知って牛を売ることを拒んだためあきらめざるを得ないでした。
そのため中国や朝鮮、あるいはアメリカから仕入れ、居留民に売ったりしていましたが、
外人の渡来が多くなるにつれ牛肉の需要が増えてくると、それだけではとても
間に合わなくなって来ました。やがて、近畿地方や、中国地方が和牛の産地であり
生産量も多いことを知ると、これらの土地の家畜商に依頼して、神戸から横浜へ
輸送させ供給を満たしました。

1862年(文久2年)、横浜で居酒屋を営んでいた「伊勢熊」が始めて
牛鍋屋を開業しました。しかし、牛鍋屋を開くにあたり女房と相談すると、
「あんなものを商売にするなら離婚してくれ」と言われ、やむなく店を二つに仕切り、
一方では女房が居酒屋を続け、もう一方を牛鍋屋にすることにしました。
始めは牛鍋屋には客が来なかったが、よい匂いがするので居酒屋の客が次第にその
匂いに引かれて集まり、ついには女房も折れて、中仕切りを取り払い、
仲良く牛鍋屋の家業に専念したと伝えられています。 そうして、やがては「牛肉を食べない者は
文明人ではない」と言われる世の中になっていきました。

1868年(明治元年)創業の串焼き屋「太田なわのれん」。
初代高橋音吉の牛肉の串焼きが安くて美味しいと評判になり、現在の末吉町に店を新築しました。
ここで牛鍋を作るきっかけとなったのは外人用の食用肉の切り落しを入手したのが
始まりであると言われいます。 当時食べられていた牡丹鍋にヒントを得て、
その肉のぶつ切りを味噌で煮、その味噌の風味と葱で肉の臭みを消したそうです。
炭火の七輪にかけた浅い鉄鍋の火回しで独特の仕上がりを考え出し、牛鍋の看板をあげました。
これがほぼ今日の牛鍋の形であります。今日に残るいわゆる「牛鍋」のかたちとして看板を掲げて
創業 した日本最初の牛鍋屋は、この「太田なわのれん」であるが、
前述のとおり、牛鍋屋としての最初の創業は関内の入船町にあった
「伊勢熊」であるといわれています。

 「太田なわのれん」の店の前には縄の暖簾がかけられ、それには「うしなべ」と書かれていました。
そこからいつしか「太田なわのれん」と呼ばれるようになりました。

 「太田なわのれん」の店 
現在の建物は、1996年(平成8年)6月に改築されました。




当時の様子 (Y150看板より)



公衆トイレ

 開港後、居留地の外国人達からの日本人に対する立ち小便への苦情対策として、
1871年(明治4年)に町の83箇所に板で囲った簡単なものを設けたのが始まりとされています。
町会所費で設置し、罰則も設けられていました。

〜明治5年3/17付の横浜毎日新聞によれば、東海道膝栗毛の作者、仮名垣魯文は
西洋膝栗毛の取材に横浜を訪れ本町辺にて風に吹かれ立小便をし、羅卒(巡査)に見つかり
科料申し付けられた旨の記事があり(当時科料は100文)、この他毎日のようにこれに関する
記事が紙面を賑わせていたそうです。〜

その後、人口も次第に増え、市街地も拡張され文化都市としてこのような便所では外見も悪く、
道に流れ出ることもあって改善の方法が考えられました。
そのとき、横浜の浅野総一郎(浅野セメント、浅野学園創設)が
便所の改造に取り掛りました。そして1879年(明治12年)に63箇所完成しました。

また、呼び名も最初は公同便所と呼ばれていましたが、1895年(明治28年)ごろから
共同便所と変わり、その後、「公衆便所」となりました。


開港広場のトイレ (当時63箇所の中の一つ)


西洋目薬

岸田吟香が著した「目薬精奇水功験書」(1875(明治8)年)によると、 1864年(元治元年)4月、
岸田吟香は目を病み、ヘボン博士の治療を受けました。それがきっかけでヘボン博士の助手になり、
日本初の英和・和英辞典である「和英語林集成」の出版を手伝うことになりました。

1866年(慶応2年)岸田吟香は、ヘボン博士から伝授された精奇水の販売を横浜で始めました。
これが我国初の西洋目薬です。ちなみに、ローマ字で有名なヘボン博士は、
1836年ペンシルバニア大学医科を卒業し、来日前にはニューヨークで高名な眼科医とし
開業していました。

岸田吟香は、1875年(明治8年)には東京に転勤し、銀座二丁目に楽善屋を開き、
精奇水の本格的な販売を始めました。

また、木戸孝允の助力を得て、1880年(明治13年)東京築地三丁目に盲人の
自立を助ける施設として訓盲院を設立しています。日本初の盲学校です。



岸田吟香

(ウィキペディアより)



パン発祥地

日本で始めて、パンの製造を始めたの日本人である。フランス軍艦ドルドーニュ号乗り組みの
コックから手ほどきを受け、日本の小麦粉で「ゆでだんご」のようなパンを焼きました。
1860年、「お貸長屋」(現在の横浜開港資料館の辺り)で、「パンのような焼饅頭のようなものパン」を
焼き、「和風パン屋」として開業します。その日本人が内海兵吉であると言われています。

 1861年(文久元年)に開業するが、11月グッドマンの家が全焼し、翌年2月に
「横浜最初のヨーロッパ風パン屋」を新規開店する。1864年、グッドマンは病気のため一時日本を
離れるので、その間、ロバートクラークに任せました。
グッドマンは1865年に再び来日し、営業を再開しています。

1865年(慶応元年)8月、ロバートクラークは横浜で「横浜ベイカリー」を開き、
35年パンを焼き続けました。その後、「横浜ベイカリー」は色々な説がありますが、
1888年(明治21年)に打木彦太郎が継承しました。その後、宇千喜麺麭製作所と称し、
そのパン屋が元町にあり、今も営業している「ウチキパン」です。



当時の様子 (Y150看板より)


「ウチキパン」元町

外のウインドウに「SINCE 1888」と書いてあります。




西洋野菜

万栄元年(1860年)、神奈川奉行所が「アメリカ麦」の種を手に入れ、生麦と鶴見の両村に
命じて作らせたのが始まりだと言われています。その頃、日本に滞在していた外国人が
種や苗を輸入し、様々な西洋野菜を栽培し始めました。

同じ1860年代、山手で教会の牧師をしていたスミスとベイリーによって農園が開かれ
「ベイリー農場」と明治中頃まで呼ばれていたものが営まれていました。本国より取り寄せた種で、
野菜の栽培は勿論、牛や豚の飼育をし、それが日本人に紹介されたと言われています。

当時、日本人もこの西洋野菜には着目をしていました。根岸や磯子ではキャベツ・カリフラワー等が、
吉田新田ではイチゴ・ピーナッツ・トマト、子安ではセロリ・ピート等が作られていたようです。



Y150展示物より




西洋家具

横浜で日本人の手によって西洋家具を製造する技術文化が咲き始めたのは
開国後のことです。それまでの横浜には外国人の暮らしに適った家具が一つも
存在しませんでした。

1863年(文久3年)に英国人のゴールマンが横浜に住む馬具職人の原安造に椅子の修理を
依頼したところゴールマンはその出来栄えに感心して、本格的な洋家具の製作を依頼しました。
これが横浜から文明開化された西洋家具への始まりです。

この優れた伝統を今も継承しているのがダニエルの洋家具で日本最初として伝統に
極めて忠実に造っています。また、これらの製法で作られた家具を「横浜クラシック家具」と言い、
山下公園近くに建つ「ホテル・ニューグランド」では、昭和初期に製作された家具を現在も
目にすることができます。ダニエルという名称は誰もが忘れず、親しみの持てるブランドとして
命名され、今も人々に愛されつづけています。

ゴールマンから伝統を受け継ぎ、ダニエルを創業したのが、咲寿武道と高橋保一の二人。
このダニエルは、先人の伝統技術を大切に守り続け、
今も元町商店街に立派なショールームを構えています。



元町のダニエル






貸自転車業

1877年の横浜元町の三丁目で石川孫右衛門が日本人初の貸自転車業を開業しました。
貸自転車業を始めるまでの経緯としては、1877年に孫右衛門が居留地31番地のチリドル商会を
通りかかったときに館主チリドルが自転車に乗っているのを見かけました。

乗り方をチリドルに教わり、このとき孫右衛門は自転車を時間貸しにすれば大いに
儲けることができると考え、チリドル商会に自転車を注文しました。この当時の自転車は
借りるのにも高値で1時間25銭(当時は鰻重は20銭ほど)にもかかわらず貸自転車は
不足するほど大繁盛でした。

孫右衛門も「仏蘭西商館」から1887年に自転車を20台購入し
貸し出しを始めたところ大好評でした。
また、孫右衛門は住吉町6丁目に石川商会を設立し、1912年まで営業していました。



Y150看板より




現在の貸自転車(山下公園)




牛乳

横浜が開港して外国人が増えたことにより日本人が一番困ったことは牛肉の確保をすることでした。
外国人は主に食べるのが牛肉などであったが日本人は祝い事などがあると必ず出したのが
牛肉程度のもので、牛肉が確保できなかった時は牛の乾燥肉で我慢していたほどでした。

開港した翌年に食肉の専門店がちらほらと出来始め専門店では食肉はあたりまえの様に
売っていたが他にバターや牛乳なども売り出し、1863年には山手付近にイギリス、フランスの
2つの軍が駐屯していた為一気に食料が増え始めました。
外国からの要求で食肉処理場を山手付近に設置しました。

また、1866年にはアメリカで芸人として働いていたリズレーが
日本へ来日し牧場を開設しました。
そこで搾った牛乳が売り出され、好評を得てました。



Y150看板より






銀行(海外資本による銀行)業務

慶応2年(1866年)、英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は、
創業2年目になるこの年に居留地62番地に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。

このことは、「海外資本による銀行」業務が初めて行なわれたことを意味しています。
日本で最初の銀行は、明治6年(1873年)創立の「第一国立銀行」とされ、
日本橋に発祥の地のプレートが飾られていますが、

これは「日本の資金による銀行」業務を意味していました。
また、香港上海銀行は、現在日本で営業を行なっている最も古い銀行です。

現在は東京都中央区日本橋と大阪府大阪市堺筋本町の2拠点のみで営業を行っているが、
一般の銀行業務は行っておらずその後、金融資産1,000万円以上の顧客を対象とした
金融サービス「HSBCプレミア」を日本にも進出、個人金融業務分野を本格的に展開している。



銀行業務発祥の地碑


産業貿易センタービル前広場




警察署

加賀町警察署は明治10年(1877)1月25日に堺町警察署として発足しています。
堺町は日本大通のあたりにあった町で、外国人居留地と日本人町との間に位置していたことから、
このような町名がつけられたと考えられています。明治15年(1882)7月、
境町警察署は横浜警察署と改称され、同時に構内に居留地警察署が置かれました。
(居留地内の外国人を監視する役目)

そして明治17年3月、居留地警察署は山下町203番地(現在地)に移転し、
さらに明治26年12月、名称も加賀町警察と改められました。戦時中は一時、
横浜臨港警察署と名前を変えられていましたが、終戦直前の昭和20年6月、
再び加賀町警察署と改称され現在に至っています。

*名前の由来は、加賀町警察署が出来た時にその場所が「加賀町」であったことと、
「加賀町警察署」の前身の「境町警察署」が加賀藩の屋敷跡地にあった名残から来ているようです。
*横浜開港後の1875(明治8)年頃には整備がほぼ完了して居留地に地番が付けられたが、
地番だけでは不便なので1879(明治12)年に30の町名が付けられ加賀町はその一つであった。

ちなみに30の町名は、日本大通・薩摩町・越後町・加賀町・前橋町・小田原町・豊後町・
武蔵横町・大坂町・琵琶町・京町・阿波町・堀川町・上田町・九州町・富士山町・花園町・
蝦夷町・尾張町・函館町・本村通り・神戸町・長崎町・武蔵町・本町通り・駿河町・角町・二子町・
水町通り・海岸通り、である。

(町名の由来:藩兵が置かれていた地域名から、又は通りの名前から町名となっています)

*1899(明治32)年に居留地が撤廃され、それまでの町名は廃止され山下居留地は山下町となった。
*昔の地名が付いているのは「加賀町警察署」の他に「薩摩町中区役所前」というバス停があります。





中華街車両進入禁止板


現在の加賀町警察署

*現在の加賀町警察署の建物は庁舎老朽化により1996(平成8)年に建て替えられました

明治17年の居留地警察署 



女子教育

1870年には、S.R.ブラウンの紹介でアメリカ・オランダ改革教会派遣の
女性宣教師メアリー・キダーがヘボン塾の教師になる。

1871年10月から翌年7月まで、ヘボン夫妻は再び『和英語林集成』第二版作成のため
上海に渡航したので、キダーが教えるヘボン塾女子部は1872年7月、
フェリス・セミナリーとして独立しキダーに委ねられ、
フェリス女学院の源流となっていきました。


                      沿革
     1870年 メアリー・E・キダー、外国人居留地39番のヘボン施療所で授業開始
     1875年 山手178番に校舎落成、「フェリス・セミナリー」と名付ける
     1889年 校名を「フェリス和英女学校」に変更
     1929年1号館は再建。信州産の鉄平石を外壁に用いています。
     1941年 戦時下、校名を「横浜山手女学院」に変更(英名表記禁止の為)
     1950年 校名を「フェリス女学院」に変更
     1965年 4年制の大学が中学高等学校とは別に誕生する
     1988年 横浜市泉区緑園にキャンパス開設(山手・緑園の2キャンパス体制に)
     2002年 第1期建て替え工事完成(1号館・カイパー講堂)。


  *東京竹橋に1872年、官立の女学校が出来る(通称:竹橋女学校)
  現在のお茶の水女子大付属中・高の源流

 *フェリスは女子学院(千代田区)と並んで日本最古のミッション系女子校です。

 *神奈川女子校御三家(フェリス女学院、横浜雙葉、横浜共立学園)は、
   すべて山手にある。




            旧1号館

1875年に山手の現在地に校舎を建築して移転しましたが、
関東大震災で大きな被害を受け震災後再建の1号館は、

1929(昭和4)年の建設で、信州産の鉄平石を外壁に
用いています。 この鉄平石は、関東大震災で倒壊した
校舎を建て直した際、生徒から集めた一銭募金で
賄われたものでした。

こうした重厚な外壁と校庭に植えられたヒマラヤスギの
緑が美しい調和をもっていました。 


2002年に建て替えられた1号館

フェリス女学院中学校・高等学校

「フェリス女学院」、メアリー・キダーによって
1870(明治3)年に設立された、
日本で最初の私立女学校です。

フェリスの校名は、キダーを派遣した
アメリカ改革派外国伝道協会の
フェリス博士にちなんだものです

創設者:ギダー
          


日本最初の臨海公園

現在の山下公園に位置する場所に東波止場とも言われるフランス波止場がありました。
フランス人居住地区にあたることからフランス波止場と言われるようになりました。
また、フランス側の要請によって幕府が建設したものとされています。

また、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災後の10月10日に山下公園は、
震災の際に発生した建物などの崩れた残骸の集積場とされました。
山下公園に指定されたのは1923年(大正12年)11月15日で
開園したのが1930年(昭和5年)の3月15日とされています。
(山下公園の面積は74,121m2)

中央の噴水広場と東側の芝生広場は、当時の面影を残しています。
2000年に再整備された園内西側エリアの『水の階段』を登った場所に
ある『せかいの広場』は、穴場的な場所です。
尚 、ボートベイシン(船留り)は1955(昭和30年)に埋め立てられ「沈床花壇」になりました。



ボートベイシン(船留り)があった頃の山下公園


ボートベイシンが埋め立てられ「沈床花壇」になった山下公園

中央の噴水広場と東側の芝生広場は、当時の面影を残しています。


ラグビー

ラグビーは、イギリスのラグビー校より始まったスポーツで、日本への伝来は、
横浜生まれのイギリス人E.B.クラーク氏がケンブリッジ大学に留学し、
同時に留学生活を送っていた田中銀之助と共に日本に持ち帰り、
慶応大学の学生に教えたのが始まりだと言われています。


1926年に 日本ラグビーフットボール協会が創立され, 
田中銀之助氏が 初代会長になった。

日本ラグビー蹴球発祥記念碑
我国ノラグビー蹴球ハ明治三十三年故
 田中銀之助イービークラーク両氏指導
ノ下ニ三田健児ニヨリ初メテ行ハレタ
 ルモノニシテ爾来義塾蹴球部ハ開拓者
トシテヨク其伝統的精神ヲ守護シ之ヲ
永遠ニ伝ヘン為メ努力シテ止マス
  昭和十八年四月  黒黄会 建之

碑文にある「黒黄会」は, 慶応大学蹴球部の OB会 とのこと。



『日本ラグビー蹴球発祥記念碑』
場所:慶応義塾大学 総合グラウンド場内 ラグビー場 北隅(港北区下田町1丁目)

画像は後ほど。


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