日本最初の和英辞典

 1859年(安政6年)にJ.Cヘボンが医療・伝道活動を目的として来航しました。
ヘボンは施療事業と共に日本語の研究を行って日本で最初の和英辞典だった「和英語林集成」を
編修し、「美国平文」と言う名前で出版しました。これが日本最初の和英辞典でした。

日本語を転写することによって採用したのが英語式の転写方法であり、また、
辞典が普及すると同時にヘボンによって書かれた文字「ヘボン式ローマ字」も広まっていきました。
ヘボンは辞典だけではなく旧約聖書や新約聖書の和訳についても活躍を治めました。

また、キリスト教主義教育を日本に根付かせることを望み、1863年(文久3年)に
横浜にヘボン塾を開設しました。その後のヘボン塾は、他のプロテスタント・ミッション各派学校と
連携し、1887年(明治20年)に明治学院として統合し、明治学院初代総理に就任しました。


*日本では活字が整わなかったので上海で印刷されました。
*日本語を横組みで記した最初の書物です。
*1896年(明治29年)三省堂が「和英大辞典」を出すまで「和英語林集成」が独壇場でした。
*ヘボンは女優のオードリー・へプバーンの一族と云われます。
 Hepburnのpは無音声で日本人にはヘボンと聞こえたそうです。
 現在はへプバーンと発音するそうです。


ヘボン博士邸跡
横浜地方合同庁舎の横に建っています。

ヘボン博士邸は文久2年(1862年)冬に、
神奈川宿成仏寺からここ横浜居留地39番に移ってきた。
住居、施療所、礼拝堂兼教室が建てられたが、
明治15年(1882年)には山手に移った。
その間、住んでいたのがここ山下町のヘボン博士邸である。


碑文

開港とともに来日した宣教師の一人で
神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、
横浜居留地39番に移転、
幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。

聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、
医術の普及などがそれである。

昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。



ヘボン


和英辞書

   ヘボンの『和英語林集成』
最初の本格的な和英辞書『和英語林集成』であった。
原稿は1866(慶応2)年7月に完成したが、
本では活字が整わなかったので上海で印刷し、
翌3年4月に完成した。
日本語を横組で記した最初の書物ともいわれる。
明治時代を通じて版を重ね、広く活用された。
(資料:横浜開港資料館)


ヘボン邸
Y150看板より



ヘボン博士は夫人の療養をかねて1881(明治14)年から1882(明治15)年にかけて
ヨーロッパで暮らしました。日本へ帰ってみると横浜山下居留地39番は売却されて
人手に渡っていました。
これには流石のヘボン博士も怒ったそうですが、どうしようもなく、
ここ横浜山手居留地245番地に1882(明治15)年から1892(明治25)年に帰国するまでの
10年間居住しました。

現在はヘボン家族寮になっています。

門柱のレリーフ


日本最初の西洋式劇場

ゲーテ座は、わが国初の本格的演劇場です。
最初は居留外国人達の案をもとに、フランスの建築家である ポール・サルダの設計に基づき、
1870年(明治3年)に横浜居留地の38番地に建てられたもので、

その後、パブリックホールとして使用され、数々の催し物のために利用されたのであります。
だが、人々の「より広いパブリックホールの建築を」との運動が起こり、
1885年(明治18年)4月18日に現在の場所である港の見える丘公園近くに
装いも新たなホールが建設されました。 因みに当時の収容人員は350人でした。

 この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、 1908年(明治41年)12月以降の事であり、
演劇・音楽会・講演会など、多種多様な目的に利用されたのでした。
当時の観客は、やはり外国人が主体であり、日本人は少なかったようです。

しかし、その少ない日本人観客の中には著名人が多く、滝廉太郎や坪内逍遥、北村透谷に
芥川龍之介、 そして横浜ではお馴染みの大仏次郎など、
後の日本文化に大きな影響を与える人物が ここゲーテ座に通い詰めたのでした。

 その後に起きた1923年(大正12年)の関東大震災によって、 一旦は建物が崩壊しまいしたが、
1980年(昭和55年)、岩崎学園によって復元され、 衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、
ゲーテ座にまつわる資料が収められています。尚、ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、
詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という言葉がその命名の由来となっています。

劇場の始りは
1864年(元治元年)11月、リズレーの開いた102番のアンフィシアター(円形劇場)が最初。
翌年ロイヤル・オリンピック劇場と改称する。
次にできたのは225番の中国劇場、当初会芳楼(かいほうろう)、
のち同志劇場(どうしげきじょう)、さらに和親劇場(わしんげきじょう)と称した。



明治・大正期のゲ−テ座

ゲ−テ座跡

明治18年(1885)4月、この地に居留外国人のための
劇場「パブリック・ホ−ル」が開場した。
アマチュア劇団の芝居、音楽会等様々な催し物が
行われた。設計はフランス人ポ−ル=ピエ−ル・サルダで、
建坪270坪、地上2階地下1階の赤レンガ造りであった。
明治41年(1908)11月、「ゲ−テ座」と改名した。
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで
外国人の社交場でもあった。この前身は、オランダ人
ヘフトにより明治3年(1870)現山下町68番地に
開設された「ゲ−テ座」と名付けられた劇場である。

山手ゲ−テ座

フランス人建築家サルダの設計で
明治18年(1885)に
建設された日本最初の西洋式劇場です。

1891年5月には、
このゲ−テ座において日本で始めて外国人劇団による
「ハムレット」が通し上演され、坪内逍遙、北村透谷らが
観劇におとずれました。


現在の「山手ゲ−テ座」は岩崎ミュ−ジアムの
地下1階にあり、岩崎ミュ−ジアムの付属ホ−ルです。



岩崎ミュ−ジアム(正式名称:岩崎博物館)

1927年(昭和2年)に創立された
学校法人岩崎学園横浜洋裁学院の
創立50周年記念事業の一環として、
1980年(昭和55年)に建設されました。

この岩崎ミュ−ジアムの敷地はフランス人建築家
サルダの設計で明治18年(1885)に建設された
日本最初の西洋式劇場ゲ−テ座の跡地です。
(旧ゲ−テ座は関東大震災で倒壊)
旧ゲ−テ座の面影を残して建設されています。


ゲ−テ座のホ−ル


日本最初の給水業

 今の元町公園にあるプールでは、以前は水質が良いため、フランス人アルフレッド・ジェラールが
横浜港に停泊している船まで運んで商売をしていました。これが日本で最初の船舶給水業の
はじまりでした。ジェラールが元町公園付近に湧いていた水を売っていたことからそこは、

水屋敷と言う風に言われ始めたわけですが、給水業だけでなく西洋瓦や、
レンガ工場、軍用日用品供給業、肉屋を居留地で営み始めていきました。

水屋敷の貯水槽については、今も尚、元町プールの入口付近に残されております。
平成11年度の元町公園の再整備に伴い、この地下貯水槽はポケットパ−ク的に整備されました。


ジェラ−ル水屋敷地下貯水槽

ジェラ−ルの水屋敷とは

横浜の市街地の井戸の水は塩分を含んでいて、
飲用には適していませんでした。他方、丘陵地帯の麓には
良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、
そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も
見られました。

この点に着目したジェラ−ルは、山手の麓に水源を確保し、
パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。
これを見た横浜の人々は、ジェラ−ルの給水業のための
施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。

ジェラ−ル水屋敷地下貯水槽の概要

幕末から横浜に居留したフランス人、A.ジェラ−ルは、山手
の丘の麓に湧いている良質の湧水に着目し、貯水施設をつく
り船舶に供給する給水業を営んだ。本施設はそのための地下
貯水槽。同氏はジェラ−ル瓦として名高いフランス瓦製造業も
併業し、これら施設はジェラ−ルの水屋敷として親しまれた。



ジェラ−ルの水屋敷、瓦の画像はこちらから。


水屋敷の壁に説明パネルがあります。


パネルの拡大:当時の工場全景

 
パネルの拡大:左ジェラ−ルの肖像、右は水屋の姿


現在も湧水が


日本最初の西洋瓦製造工場

横浜開港後、来日した西洋人は、はじめ和(日本)瓦で葺かれた日本風の建物に住んでいましたが、
しだいに自国風の建物を建て始めます。しかし、建築資材である西洋瓦やレンガ等を舶来品に
頼っていたため、品不足に悩まされることもしばしばでした。
このことに目を付けたフランス人実業家A.ジェラ−ルは、明治初期に日本最初の
本格的な西洋瓦と
レンガの製造工場(A.GERARD'S STEAM TILE AND BRICKWORKS)を始めました。

西洋瓦にはスパニッシュ瓦(スペイン)やフランス瓦(フランス)などの種類があり、
ジェラ−ル瓦はフランス瓦に分類されます。ストレ−ト型(長方形)で、
上下左右につめ状の凹凸をつけ、
相互に噛み合わせながら瓦桟に引っ掛けて噴き上げていく技法に特徴があります。
この元町公園プ−ル管理棟の屋根の一部は、そのジェラ−ル瓦(黒色系統の中期型に
分類される1878.1885.1887年銘入り)で葺かれています。

製造工場は1923年(大正12年)に起きた関東大震災による崖崩れで倒壊してしまいましたが後に、
レンガ工場が建っていた場所に元町プールの管理棟をジェラールが造っていた
西洋瓦と同じのを使い、デザインはレンガ工場をイメージして建てられました。
今も尚、レンガ工場だった時の面影が見受けられます。


説明文

ジェラ−ル瓦(西洋瓦)について

横浜開港後、来日した西洋人は、はじめ和(日本)瓦で
葺かれた日本風の建物に住んでいましたが、
しだいに自国風の建物を建て始めます。
しかし、建築資材である西洋瓦やレンガ等を舶来品に
頼っていたため、品不足に悩まされることもしばしばでした。

このことに目を付けたフランス人実業家A.ジェラ−ルは、
明治初期に、日本最初の本格的な
西洋瓦とレンガの製造工場
(A.GERARD'S STEAM TILE AND BRICKWORKS)を
始めました。

西洋瓦にはスパニッシュ瓦(スペイン)
やフランス瓦(フランス)などの種類があり、
ジェラ−ル瓦はフランス瓦に分類されます。

ストレ−ト型(長方形)で、上下左右につめ状の凹凸をつけ、
相互に噛み合わせながら瓦桟に引っ掛けて噴き上げていく
技法に特徴があります。

この元町公園プ−ル管理棟の屋根の一部は、
そのジェラ−ル瓦(黒色系統の中期型に
分類される1878.1885.1887年銘入り)で
葺かれています。

山手80番館遺跡
元町公園の上、エリスマン邸の隣にあります。

ここにもジェラ−ル瓦やフランス瓦が使われていました。




元町公園プ−ル管理棟


ジェラ−ルの水屋敷、瓦の画像はこちらから。


野球の試合

日本野球初の試合
居留地の新聞『ジャパン・ウィークリー・メイル』 の1871年(明治4年)11月4日号に、
アメリカ軍艦コロラド号(当時アメリカ軍艦・元太平洋郵船の貨客船)の水夫と居留民とが
9月30日に野球の試合を したという記事がでています。

場所は横浜公園のすぐ近くのスワンプ・グラウンド、現在の港中学校がある辺りです。
これが日本で最初におこなわれた野球の試合だといわれております。





港中学校

日本野球初の国際試合
明治29(1896年)年5月23日に旧制第一高等学校(現・東大教養学部)と
YCAC(ヨコハマ・クリケット・アンド・アスレティック・クラブ)の 対戦が横浜公園でおこなわれ、
29対4で一高が大勝したそうです。このときの一高選手のスタイルは素足に脚絆、
キャッチャー以外の選手は素手だったそうです。

1996年 6月2日(日) 日本野球初の国際試合から100年を記念して、
「100年目のリターンマッチ YCAC対東大OB」が行われました。

(YCACの前身はYAC、東大の前身が第一高等学校。)


一高チームの張り切りようはすごかった。
相手からの「ナンジニクルカ(何時に来るか)」との問い合わせ電報を「汝、逃ぐるか」と
読んで憤慨するいれこみぶりだ。

だから米国人からなる相手チームに大勝した喜びようもただごとではない。
祝勝会で寮総代は落涙しながら語った。「きょうの勝利はただ一高のみの勝ちではない。
邦人全体の勝ちである。日本がアメリカを征服したのである」

(佐山和夫著「明治五年のプレーボール」NHK出版)。引用



横浜スタジアム
1876年 横浜彼我公園(横浜公園)完成。公園内にクリケット場が作られ、ここは兼用の野球場ともなる。
この地は戦後米軍に接収されてゲーリック球場と命名され、その後横浜市に返還されて平和球場、
そして1978年4月全面的に改築して、「横浜スタジアム」に生まれ変わりました



ホテル

横浜で初めて建てられたホテルは1860年(安政7年)の2月24日に
現在の山下町70番地(住友海上・上野共同ビル)の場所で開業しました。

経営者は、オランダ船籍ナッソウ号元船長のC.J.フフナーゲルでありました。
また、ホテル内にはバーがあり、日本初の洋式バーであるとも云われています。

建物は立派ではなかったがこのホテルにはシーボルト父子や、
画家のW.ハイネなども滞在していました。だが、1863年(文久3年)に、一旦閉鎖し、
1864年(文久4年)に新装開店しましたが、1866年(慶応2年)に大火で焼失してしまいました。

現在では、色々なホテルがありますが遡ればフフナーゲルが建てた
「ヨコハマホテル」が発信源として、そこで働いていた従業員が
新たなホテルに点々と分かれたとされています。


「横浜かをり」 山下町本店
ケーキショップと喫茶室があります。


住所: 横浜市中区山下町70番地
ツタで覆われたビルですので、すぐに判ります。
かおりの玄関左に記念碑が建っています。


日本でのバーの発祥
延元年(1860年)2月24日、現在のレストラン「かをり」(山下町70番地)に、
「横浜ホテル」が竣工して、このホテルの中に“プールバー”が出来たのが
日本でのバーの発祥といわれています。

第2次世界大戦後、多数のアメリカ兵の駐留や、1950年に勃発した朝鮮戦争に伴い、
横浜中華街にはアメリカ兵や外国人船員を主たる対象にしたバーが増えたといわれています。

また、チェリーブロッサム・ミリオンダラー・バンブー等は、
横浜から世界的に発信されたスタンダード・カクテルです。

「横浜かをり」


外国人と日本人共有の最初の公園

横浜公園の造営は1876年(明治9年)にイギリスの土木技師、R・H・ブラントンが設計図を
作成したのが始まりです。ブラントンの設計は、新たな埋立地の造成と下水道を計画し、
掘りを拡げ、護岸を補強するもので、日本大通りが建設予定地となりましたが、
各国の領事との話し合いもまとまりかけた6月頃に、アメリカ公使から苦情が出ました。

そこでブラントンは、公園の半分を占めるクリケット用芝生地を中央に移し、
アメリカ側もこれには賛成、ようやく公園を建設することになりました。 横浜公園は、
外国人と日本人の共同公園とされ「彼我公園」(ひがこうえん)とも呼ばれました。
しかし、当時は外国人の利用の方が多かったようです。

また、横浜公園は最初に西洋花火や、国際親善野球の試合などが行われた公園でもあります。
そして1934年(昭和9年)には、ルー・ゲーリックらを筆頭とする米大リーグの
オールスターが来日、全日本チームと対戦しました。
これに因み、後年駐留軍に接収された時「ゲーリック球場」という名称になりました。

その後は名称を「横浜公園平和野球場」と変え、
老朽化を期に横浜スタジアム誕生へと至る訳です。現在の横浜公園は、
観光スポットとしても名高く、市民の憩いの場にもなっています。
また、横浜公園は、1870年(明治3年)に開設された山手公園に次いで
2番目に古い公園でもあります。



横濱公園の碑

横濱公園は明治九年を以て創設せる我國最古の公園なり初は
神奈川縣の所管なりしか同三十二年來横濱市の管理に歸し同
四十二年に至り改造に着手し漸く整美を得たり斯くて大正十二年
九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は
緑陰池邊に避難して危く も九死に一生を得たる
今次復興事業として新公園を起工するに方り裏面鐫刻の有志惣
那惟次郎外諸氏は發起して特に樹栽を資け以て美化の一助に
供し併せて再生謝恩の意を表せんとするや忽にして曾て避難し
たる人々の賛同一和を得て計畫の遂行を告けたるは今にして之
か美擧たるや論を俟たす殊に幾百星霜の後其の鬱蒼繁茂の状を
観んか必すや回想の念の禁せさるものあるへ志仍て茲に由来を
禄して之を他日に傳ふと云爾

昭和四年三月 横濱市長正三位勲二等 有吉忠一


プラントンの銅像
横浜公園内にあります。
横浜の近代化に多大に貢献しました。
 

横浜公園

横浜公園ができる前、明治三年に山手公園が
オープンします。
それが洋式公園の始まりです。
公園は「彼我」でもスポーツ施設は「彼ら」だけのもの
日本で最初の山手公園は、外国人たちが
日本政府から土地を借りて自分たちの
お金でつくった公園です。

横浜公園は、 外国人(彼ら)と日本人(我ら)で
共同利用するという形で日本政府のお金でつくる。

ですから「彼我(ひが)公園」とも呼ばれています。
そして昭和四年に、復興の植樹記念の碑の
除幕式が公園でおこなわれました。
当時の有吉忠一市長が、
この植樹のいわれを記念碑に記しています。


横浜公園左は横浜スタジアム



 

運上所

開港に伴い、横浜には運上所が設けられました。運上所とは、簡単に言うと物の出入りを
管理する機関であり、外交事務や関税を取り仕切るだけではなく、幕府の外務、

その他港の行政・刑事、更には船の製造や修理の監督まで行う総合的な役所でした。
因みに「運上」というのは現在で言う税金の事です。設置場所は現在の神奈川県庁所在地で、
当時は運上所を境に西側が日本人居住地、東側が外国人居留地でした。管轄としては、
現在の紅葉坂の途中に置かれていた神奈川奉行の支配下にありました。

1866年10月12日に関内大火(豚屋火事)で焼失したが翌年に日本最初となる石造りの
洋風2階建て新庁舎が建築され、それを境に横浜役所という名称となり、
1868年(明治元年)明治政府に移管されました。その後の1872年(明治5年)11月28日に
横浜税関と名称を再度改め、現在に至っています。
ここで幕末の商人達は、諸外国を相手に行う色々な取引や物品の検査を受けたりしてました。
尚、横浜税関が誕生した11月28日は、日本全国にある運上所が一斉に「税関」という呼称に
なった日であり、それ以来この日は、税関記念日と呼ばれています。
今でも神奈川県庁本庁舎の敷地内には、神奈川運上所跡の碑があり、当時を忍ばせています。
横浜税関はクイーンの愛称を持つ建物です。

     慶応2年(1866)豚屋火事で類焼、慶応3年新築、
     明治元年(1868)明治政府に移管され、明治4年横浜運上所に改名、
     明治5年(1872)横浜税関に改められました。
     明治6年(1873)初代税関庁舎が竣工しました。
     明治16年、8万円で県に売却。
     明治18年(1885)2代目税関が象の鼻に竣工。
     大正12年関東大震災で倒壊。
     昭和9年3代目が竣工。


神奈川運上所跡

説明文

開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、
今の神奈川県庁所在地に設けられ、
神奈川奉行の支配に属していた。
慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。
明治元年(1868)明治政府に移管され
同5年(1872)横浜税関に改められた。

この看板は県庁入口左側角にあります。


県庁(愛称キング)


現在の税関(クイーン)



神奈川奉行所跡の碑

説明文

横浜開港にともない安政6年(1859)6月4日、
開港場建設の事務に当たった外国奉行酒井忠行・
水野忠徳・村垣範正・堀利..・加藤則著の5名に
神奈川奉行兼帯の命があり、青木町(神奈川区)に
会所、戸部村宮ケ崎(西区)に奉行役所を置き、
また横浜村(中区)の中央に運上所を置いて
事務を執りました。

この地にあった奉行役所は戸部役所と呼ばれ、
内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では、
関税及び外務全般の事務を取り扱いました。

万延元年(1860)神奈川奉行所は専任となり、
松平康直・都筑峰..が任命されました。

明治元年(1868)3月、明治政府は新たに
横浜裁判所を置きましたが、
4月神奈川裁判所と改め、これを2つに分け
横浜裁判所・戸部裁判所とし、運上所並びに
戸部役所の業務を引き継ぎ、
神奈川奉行所は廃止されました。

その後、明治3年、神奈川県庁と改称されました。

横浜市教育委員会文化財課

社団法人 横浜国際観光協会
平成6年3月

青少年センタ−の紅葉坂沿いに建っています。




神奈川運上所跡碑のある県庁



日本最初の鉄筋コンクリートビル

日本で最初に建てられたコンクリート造建築は、1911年に竣工されました。
それが三井物産横浜ビルであり、日本大通りに現存し今も当時の面影は
残されたまま建ち続けています。

三井物産横浜ビルが建てられるまでは洋風建築で
デザイン面では堅苦しい感じがするルネサンス調が多かったため三井物産横浜ビルは
どちらかと言うとモダンな印象を当時の人々に与えたと思われます。

また、1945年に起きた関東大震災にも耐えたとされる建造物です。
三井物産横浜ビルの設計に加わったのは
外国人ではなく日本人の遠藤於遠、酒井祐之助の二人でありました。


三井物産横浜ビル・1号館


倉庫の側面:2015年解体


竣工
1号館 : 1913年(大正2年)3月
2号館 : 1927年(昭和2年)
倉庫 : 1910年(明治43年):2015年解体

設計
1号館 : 遠藤於菟、酒井祐之
2号館 : 遠藤於菟
倉庫 : 遠藤於菟:2015年解体

構造
1号館 : 鉄筋コンクリート造4階建て、地下1階
2号館 : 鉄筋コンクリート造4階建て、地下1階
倉庫 : 煉瓦造3階建て、地下1階:2015年解体

この建物の1号館が、日本最初の全鉄筋コンクリート造
の建築物です。

関東大震災時の画像リンク。





礼砲(神奈川台場)

ペリー来航以降、安政元年(1854)に和親条約、さらに安政五年(1858)には各国と
修好条約を締結したことにより日本は横浜、函館、長崎、新潟、神戸を開港することとなりました。

そこで江戸湾内を航行する船舶の監視役として神奈川台場が築造されることとなりました。
 担当となった伊予松山藩の松平勝成はさきに築造された品川台場の構造が不十分である

風評を受けて、より一層堅固な台場の築造が必要であるとして並木町、
及び漁師町沖に2基の台場を築造することを決定し、漁師町沖の台場に関しては
勝海舟に一任したのでありました。

 神奈川台場の構造は三つの稜堡を海上に鋭角状にもつ半星形状で、
陸地とは2本の土橋によって結ばれる縄張りでありました。またこの土橋は台場と陸地間を囲む
舟溜りとしても活用することができる構造でありました。

明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたましたが、大正十年頃から埋め立てられ、
現在では石垣の一部を残すのみとなっています。



神奈川台場跡



説明文の看板

説明文

安政六年(1859年)幕府は伊予松山藩に命じ、
勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
当時の台場は総面積二万六千余平方メ−トル
(約八千坪)の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と
工期約一年を要し、萬延元年(1860年)六月竣工した。
明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として
使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、
現在では石垣の一部を残すのみとなった。



現在の礼砲の数は、受礼者の等級によって異なり、一般的には次の通りであるが、
国によっては細部に差異があることもある。なお、受礼者としては主に外交官、将官等が想定されている。
国旗、元首(天皇・国王・大統領など)、皇族21発
副大統領、首相、国賓19発
閣僚、特命全権大使、大将(統合・陸上・海上・航空幕僚長たる陸・海・空将)17発
特命全権公使、中将(陸・海・空将)15発
臨時代理大使、少将(陸・海・空将補)13発
臨時代理公使、総領事、准将11発
領事7発




憲法草案

かつて、この辺りに東屋という旅館があり、ここで明治憲法の骨格が練られました。
明治維新後、明治天皇が元老院議長に憲法草案を作るように命じましたたが、
最初の草案は欧米各国の制度に少し手を加えただけで、国情に合わないとされ、
明治15年(1882年)、伊藤博文らが欧州に渡り調査を進めた結果、明治17年(1884年)頃から
本格的に憲法草案の起草作業に入りました。

明治20年(1887年)から、伊藤博文らは東京を離れ横浜の金沢八景「東屋旅館」に集まり
立案の構想を練りました。ある夜、この東屋に盗賊が入り、機密文書の入っていた行李が
盗まれましたが、幸い翌日、書類は無事に発見されました。

これがきっかけとなり、安全を考え、会議の場所を夏島(横須賀市夏島町)にある
伊藤の別荘に移し、草案が完成されたと言われています。
当時、夏島は、孤島状態にあり、機密の確保に好都合でした。
このためここで起草された草案は「夏島憲法」とも呼ばれています。
また、夏島には『明治憲法草案起草の跡』碑が建っています。

東屋旅館で練られた草案が、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法として発布されました。
この憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、
日本は東アジアではじめて近代憲法を有する立憲君主国家となりました。

また同時に、皇室の家法である皇室典範も定められました。
また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められました。
大日本帝国憲法は、第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行されました。



『憲法草創之處(ところ)』碑




明治憲法起草の碑(原文)

この碑は明治20年(1887)伊藤博文、伊東巳代治、
金子堅太郎らが料亭東屋において
明治憲法制定のため草案を起草したのを記念し
昭和10年(1935)金子堅太郎書で建立されたものである。


場所:洲崎町交差点(金沢区洲崎町)



井上毅が泊まっていた旅館があった野島。
夏島はこの先の島で、現在は横須賀市追浜です。


東屋庭内に建てられた「憲法草案之處・伯爵金子堅太郎
書」と記した、総高3mの石碑は、東屋廃絶の後、近くの
「金沢歴史の道」に移されました。




海水浴場

横浜・富岡の付近は、かつて白砂青松の素晴らしい海水浴場でした。
江戸末期、横浜が開港され外国人が住むようになると、海水浴に適した場所を求めて
この付近に外国人が逗留するようになりました。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士も
この地を訪れ、この地が東京湾で1番海水浴に適していると推奨したので、
一躍脚光を浴びることになりました。

その後、政治家等中央の大物たちが別荘を富岡海岸に構えたといわれています。
井上馨・伊藤博文・三条実美・松方正義等、数多く、当時は「夏は富岡で閣議が開ける」とまで
言われていました。公園の周囲は、住宅団地と工場群が広がっていて、

海岸が近くにあったとは信じられない場所です。記録によると、公園の西側はすぐ海になっていて
漁港と海岸が広がっていましたが、昭和40年代から50年代にかけての高度経済成長期に
広大な面積の埋め立てが行なわれた為、様相は一変してしまいました。

ちなみに「海水浴発祥の地」と言われる所は他にもあります。
言ったもの勝ちでしょうか。


右の縦長の碑が海水浴発祥の碑です。

大きい「記念碑」と書いてある記念碑は
奈良時代から漁港として受け継がれてきたが昭和46年1月2
9日に漁業組合が埋め立てに合意し、富岡漁港がなくなった
こと後世に残すために立てられた碑です。


海から水路で海水を引いてある富岡八幡公園


場所は富岡八幡公園の八幡宮表参道入口右側に
この碑は建っています。

以前は八幡宮近辺は海岸でしたが、
埋め立て事業のため海辺はシ−サイドラインより
先になっています。

江戸末期から明治にかけて、横浜に居留した
外国人たちの、レクリエイションの場所ともなりました。

其の中にローマ字で名高いヘボン博士が居て、
富岡海岸の水質の良い事に目を付けて、
海水浴を奨励しましたので益々来遊する人が増え、

明治十四年頃には「海水浴場 神奈川県庁」と云う
標識が建てられました。
是れを以て我が国の海水浴発祥の地となりました。



開国後最初のカトリック教会

1862年(文久2年)開国後、居留地の外国人への布教の為に、最初の教会として
居留地80番地(現在の中華街東門近く)にフランス人宣教師ジラール師によって建てられました。

やがて居留地が過密になり、山手地区の住宅が増えたので、
教会も環境のよい山手へ移転しました。

*エピソード
1863(文久3年) 1月20日神奈川奉行安部正外(まさひろ)は居留地の天主堂に
捕吏を遣わし 見物していた50余人の中の33人を捕らえ戸部村にある奉行所の牢に入れてしまった。 これを目撃していたジラール神父は早速にフランス国公使、ド・べルクールへ知らせた、
そこで公使は神奈川奉行に釈放を求めたところ、直接幕府と交渉してもらいたいと言う事であった、
そのため正月26日に幕府老中に掛け合った処、2月5日老中は神奈川奉行に釈放を命じた為
2月14日までには全員が釈放され事件はおさまった。

*最初の火の見
1864年(元治元年)2月26日の居留地消防隊の会合で、
居留地80番横浜天主堂のムニク神父と協議の上、
天主堂の鐘をファイヤー・アラームとして使用し監視人を置くことで合意。
居留地内の火事では1撃、日本人街2撃、弁天のオランダ領事館一帯は3撃、
元町方面は4撃と決められた。1871(明治4年)に消防隊自前の火の見櫓が建てられ、
天主堂の鐘のファイヤー・アラームとしての役目を終えました。


キリスト像

キリスト像の左面に刻まれている碑文

わが国が開国して間もない文久二年(1862年)
キリシタン迫害以来絶えて久しかった天主堂が
この地に創建され、キリストの聖心に献げられた。

これは近代日本最初の教会であり、
現在の山手カトリック教会の前身をなすものである。

このたび天主堂創建百年にあたり、ここに聖心のキリスト像
を建立して、永くこの遺跡を記念する次第である。

1962年 4月29日

横浜天主堂遺跡顕彰委員会


初代聖堂


2代目聖堂


現在の聖堂

(画像は3枚は山手カトリック教会入口の案内板より)

居留地が過密になり、山手地区の住宅が増えたので、教会
も環境のよい山手へ移転、双塔をもつゴシック様式レンガ造
りの大聖堂が建てられました、ところがこの壮重な建物は関
東大震災により倒壊し、1933年(昭和8年)現在の聖堂へ
とその歴史が引き継がれました

カトリック山手教会の地図

当時の教会

説明パネルに書かれている内容

横浜市地域史跡  横浜天主堂跡
 (登録 平成13年11月1日)

文久元年12月(1862年1月)、
横浜居留地(現山下町80番地)において
開国後最初のカトリック教会の聖堂の献堂式が
行われました。

正式名称を「EGLISE DU SACRE-COEUR」
(聖心聖堂)といいますが、建物に「天主堂」と記した
文字がありましたので天主堂とも呼ばれました。

パリ外国宣教会から日本管区長代理として指名され、
フランス代理公使の通訳として来日した
ジラ−ル(Girard)神父が、万延元年(1860)6月頃、
横浜居留地80番地に聖堂建設用地の
借地権を取得しました。

まず司祭館の建設を進め12月に完成しました。
11月に来浜したムニク(Mounicou)神父がここに
住んで聖堂建設に従事し、翌年1月には
ジラ−ル神父も来浜し、聖堂は文久元年(1861)末に
完成しました。

その後、明治39年(1906年)、聖堂は、山手44番(現
山手町44番地)に移転しました。

震災後再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。
昭和37年(1962)、天主堂創建100年記念して
碑が建てられました。

平成15年8月   横浜市教育委員会




記念碑のある場所・元町中華街駅2番出口すぐ。

場所の地図



機械製氷発祥の地

 横浜村が開港してからまもなく横浜港に氷が輸入されてきました。
また当初の氷はボストンと函館の氷が搬入されていましたが、ボストンの氷は横浜まで
長時間掛かるため高価な氷とされていました。その氷で元町周辺の居留地で商売をしていた
外国人も居たほどでした。

そして、函館からの氷は、頻繁な外国船の出入と言う海運の利便さが
大きく横浜や東京に搬入されました。
日本人では中川嘉兵衛が1864年の11月に「氷売り込み」を
出願し、氷の切り出しから各地で試みて失敗しましたが、1869年に函館氷の出荷に
初めて成功しています。

1879年(明治12年)には元町周辺に日本最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ−」が
設立されオランダ人ストルネブリンクが永く経営していました。
その後も経営者は何度か変わりましたが、関東大震災の1923年まで経営を続けられていました。



機械製氷発祥の地の説明文(パネル)

開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う会社が
いくつもつくられました。ホテルのレストランやアイスクリ−ムサロンで氷が共されたという記録が残っています。

1879(明治12)年には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ−」
がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。

設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの、翌年には再建し、1999年(平成11年)
まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として
再建当時の姿のままで稼動していました。

山手迎賓館の右角にパネルがあります。

現在は「山手迎賓館」になっています。
場所は元町中華街駅・元町出口のすぐ、谷戸坂入口。
場所の地図



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