ビール醸造

1869年(明治2年)、山手居留地46番にて、ローゼンフェルトが開業しました。
居留地の外国人向けに、日本初のビール醸造所「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」が開始し、
5年程操業しました。

1870年(明治3年)には、横浜・山手の外国人居留地123番にウィリアム・コープランドが、
ビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」、コープランドの醸造所の敷地では、
コープランドの廃業後もビール醸造が継続され、麒麟麦酒株式会社へとつながり、
コープランドは自身の持つビール醸造の知識と技術をより多くの日本人へ積極的に伝授しました。

コープランドの特徴は、なかなか商売上手なところでした。よさそうなところへ出資し、
経営参加をして、お金をつくっては、自分の商売も考える。日本人のビール工場がチラホラと
できつつあった頃には、ビール醸造用品を販売していました。

ビールの熟成に適したよい地下もありました。
今でも「ビール井戸」が横浜市北方小学校に残されています。

この地が、キリンビールの発祥の地であることを記念して、1937年(昭和12年) 、
キリン公園に「麒麟麦酒開源記念碑(日本の麦酒発祥の地)」が建っています。


*明治18年スプリング・バレー・ブルワリーは日本在住の外国人に引き継がれ
 「ジャパン・ブルワリー」に。明治21年キリンビールが発売された。
*明治40年 「ジャパン・ブルワリー」の事業を引き継いで麒麟麦酒株式会社創設。
 大正12年関東大震災で施設が倒壊、生麦に移転。




[麒麟麦酒開源記念碑]
場所:工場のあった「キリン園」跡地が公園になっています。この公園にあります。



<ウィリアム・コープランド>
1864年(元治元年)に来日し、天沼の地(現在の中区千代崎町・諏訪町近辺)で良質な硬水を発見し、
ここの水はビールの醸造に適しているため、遠路から取り寄せなくても国内で醸造できると考え、
天沼に醸造所を設立した。


隣の北方小学校の校庭にビール井戸が二つ残っています。その中の一つです。
道路わきにありますので、いつでも外から見られます。
もう一つは校舎玄関にあります(道路から少し見えます)。

  学校で前の道路はビヤ樽を運ぶ馬車が行き交ったので
              現在も「ビヤザケ通り」と呼ばれています。         


記念碑の横に説明の看板があります。

上の説明板は下記の通りです(原文のまま)

     ビール井戸
      この地に日本で最初のビール工場が建設されました。
      いま校庭になっているところには清水のわき出る池があって、
      キリンビールは1888年からここでつくられていました。

      そのころは横浜市の水道がまだここまで引かれて
       いなかったので、 井戸水を使ってビールがつくられてました。
     この井戸は1895年から1901年までビールづくりに使われたものです。

   1984年1月10日
   寄贈  キリンビール株式会社


当時の工場 (記念碑説明板より)


キリンビール」の誕生 
 明治18年になると、コープランドの手放した敷地に再び「ジャパン・ブルワリー」という醸造所がつくられ、
「キリンビール」の銘柄で全国に販売が始められた。明治35年、コープランドは持病のリューマチが悪化し、
68歳でこの世を去った。コープランドのビール醸造所を再興した「ジャパン・ブルワリー」は、先達の死に際し、
その葬儀一切を取り仕切ることで報いた。

 明治40年、日本人に譲渡され「ジャパン・ブルワリー」は社名も「麒麟麦酒株式会社」となった。
資本の増加により事業は拡大していったが、関東大震災で山手の天沼工場は倒壊してしまった。
それにより工場を鶴見(現在の生麦工場)に移転した。

旧本社工場(現在の横浜工場)について
現在の横浜工場は、関東大震災で崩壊した旧本社工場(旧スプリング・バレー・ブルワリー、
横浜市山手天沼=現在の中区千代崎町)を移転する形で開設された。そのため、キリンビール関係者は
横浜工場を「現存するビール工場としては日本で一番伝統がある工場である」「日本で最初のビール工場を
引き継いでいる」と説明している

(キリンビールHPより引用)

近代競馬場

最初は幕末の横浜居留地にいた外国人達がレクリェーションとして始めたものでした。
正式なレースとして初めて行われたのは現在の中華街あたりで、1862年4月1日と言われています。

日本では、それまで武家が行った乗馬術やお祭り事などの行事の1つとして
草競馬をやる程度でありました。

この日本初の本格競馬に人々は熱狂しました。そして居留人達が各国政府の代表を通して、
よりよい競馬場をという要求を幕府に交渉する事になったのです。

その結果、外国人遊歩道内の根岸村に競馬場が建設され、外国人乗馬クラブが使用料を払い、
この場所を借りる運びとなりました。
ここから全国に向けて、本格的洋式競馬の波が広がっていきました。



現在の一等馬見所で昭和5年(1930年)に建設


根岸競馬場の歴史
1862年(文久2):日本初の近代競馬が横浜居留の外国人
たちの声により外国人居留地裏(現在の関内地区の埋立地)
にて始められる

1866年(慶応2)12月:根岸(横浜市中区)に幕府の手によ
って競馬場が造成され「根岸競馬場」が誕生した

1929年(昭和4)4月:根岸競馬場、新スタンド(馬見所)着
工、翌年竣工

1937年(昭和12):「日本競馬会・横浜競馬場」と呼ばれる
ようになり根岸競馬場という名前は使われなくなった

1942年(昭和17)10月18日:横浜競馬場での競馬開催は
終了される

1943年(昭和18):横浜競馬場および観戦スタンド等の諸
施設は海軍に接収される
(理由:競馬場から横須賀軍港が一望できる為、海軍の通信
所として適所である)

1969年(昭和44)11月:旧競馬場跡地が返還され横浜市
の「根岸森林公園」と一部「中央競馬・馬の博物館」となる



1930年台の一等馬見所



モ−ガン広場(説明原文)

根岸森林公園は第二次世界大戦までは、
競馬場として利用されていました。
馬場に馬場のほかに、一時馬見所・二等馬見所・
下見所などの施設がありました。

全ての施設は、アメリカ人建築家
J・Hモ−ガン(1877−1937)による設計でした。

J・Hモ−ガンは多年にわたり、根岸競馬場の施設を
設計しています。
設計の過程では、設計案の変更を行っており、
主な施設である一等馬見所・二等馬見所は、
実際に設計された設計案のほかに
別の設計案がありました。

ここでは、図面と写真で、一等馬見所・二等馬見所の
設計過程及び建設された後の建物の様子、
当時の競馬場の様子を紹介します。
現存している建物は、一等馬見所で
昭和5年(1930年)に建設されたものです。


根岸競馬場の画像はこちらのペ−ジへ
当時の様子 (Y150看板より)


石鹸工場

今から約4000年前、アジアのヒッタイト人がシャボンソウの灰を混ぜた水で手を洗ったこと、
シュメール人がアルカリ液で手・足・身体を洗ったことが石鹸の始まりだと言われている。
日本には、1543年(天文12年)頃から1596年(慶長元年)頃までに渡来しました
ポルトガル船やスペイン船により伝わりました。

1824年(文政7年)、宇田川棒斎・榕菴が日本で初めて医薬用石鹸の製造に成功し、
1873年(明治6年)横浜の堤磯右衛門が
洗濯石鹸の製造に成功し、日本最初の石鹸工場が横浜に誕生しました。


石鹸工場発祥の地

碑文
−堤磯右衛門石鹸製造所跡−

堤磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、
明治初期の横浜の実業家でした。

磯右衛門は、明治六年(1873)三月、
横浜三吉町四丁目(現:南区万世町二丁目二十五番地付近)
で日本最初の石鹸製造所を創業、
同年七月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に
成功しました。

明治十年(1877)第一回内国勧業博覧会で、
磯右衛門の石鹸は花紋賞を受賞しました。
その後、香港・上海へも輸出され、
明治十年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えました。

明治二十三年(1890)「時事新報」主催の優良国産石鹸の
大衆投票で第一位になりましたが、全国的な不況のなかで
経営規模を縮小せざるをえませんでした。

翌年創業者の磯右衛門が死去、その二年後の
明治二十六年(1893)ついに廃業にいたりました。

平成五年十二月一日に南区が区制五〇周年を
迎えたことを記念し、この地に
日本最初の「石鹸工場発祥の地」の記念銘板を設置します。

平成六年三月

南区制五〇周年記念事業実行委員会
横浜市南区役所


工場全景


石鹸工場発祥の碑は万世町町内会館の
入口に建っています。


[堤磯右衛門]
 1833年(天保4年)、武蔵国磯子村(現・横浜市磯子区)で生まれる。
1853年(嘉永6年)、品川台場の建設資材輸送に携わっていたが、公共事業の建設請負から物資の
製造に転身する。レンガと、灯台の菜種油の製造をはじめたが、1873年(明治6年)には撤退する。

この頃に、石鹸の製造に成功し、1874年(明治5年)には現在の横浜市南区万世町に堤石鹸製造所を開設する。
1879年(明治10年)代に入り、経営は安定し、日本各地の博覧会で賞を受賞したり、各地からの研修生に

技術指導をしたりと、大きな役割を果たした。しかし、同業者の増加などにより経営は悪化し、
1890年(明治23年)には堤石鹸製造所は操業を停止した。
翌年1月28日には堤自身も病に倒れ、その生涯に幕を下ろした。


日本吹奏楽

明治元年十月遷都の為京都から東京へ向かう天皇一行が神奈川に到着した際沿道で出迎えた
英仏楽隊が歓迎の楽曲を演奏しました。天皇の護衛に当たっていたのは薩摩藩士達で彼等は
今迄見た事もないこの情景に感激、翌年薩摩藩でも軍楽隊を創設する事にし
明治2年10月若者30名を選抜して特訓の為横浜に派遣しました。
この時の宿舎となったのが妙香寺でした。

指導者は英国陸軍第10連帯第1大隊所属軍楽隊の指揮者ジョン・ウイリアム・フエントンから
吹奏楽を妙香寺において猛特訓を受けました。楽譜も見た事がない若者達が
楽譜を読み演奏できるまで一年たらずで、フエントンはこの若者達の努力と習得力においては
非常に優秀であったと賞賛しています。明治3年9月7日には山手公園で初めての
野外演奏をしています。これが日本人による吹奏楽団創立の
序であり吹奏楽活動の緒となりました。

 *生麦事件を契機に起こった薩英戦争でイギリス軍と交流が生まれた。
*薩摩藩軍楽隊は後に日本海軍軍楽隊に。後に日本陸軍軍楽隊に分立。
*第2次世界大戦後、神奈川県警音楽隊はアメリカ陸軍から。
 横浜の学生達はアメリカ海兵隊から指導を受けアメリカンスタイルが普及、
 日本のマーチングの原点となる。


日本吹奏楽発祥の地碑
碑文はこの裏にあります。

碑文
明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士
30余名が当妙香寺に合宿し、英国陸軍第10連隊
第1大隊所属軍楽隊の指導者、
ジョン・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から
吹奏楽を学んだ。これが日本人による吹奏楽団創立の
序であり、吹奏楽活動の緒となった。
発祥から120年にあたるこの年(1989年)日本吹奏楽が
悠久に発展することを祈念し、
ここに吹奏楽界同士に誘い、これを建立。
謹しで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。

日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人会
      代表   春日 學


妙香寺



君が代発祥

ジョン・ウイリアム・フェントンは、英国公使館護衛の任務を帯び、
横浜に駐屯していた軍楽長でした。フェントンは妙香寺という寺の境内で、
薩摩藩に属する青年達約30人に音楽や楽器の演奏を教えていました。

なぜ妙香寺が選ばれたのかと言うと、当時の軍楽生が妙香寺に寄宿しており、
また、付近に軍楽演奏に適した大きい建物が無かったからだとされています。

そして、そんなフェントンが1869年(明治2年)に、日本には儀礼用の国歌はあるのかと問い、
鹿児島藩が薩摩琵琶歌の中から「君が代」を選んで、フェントンに作曲を依頼したのでした。

曲は1870年(明治3年)9月、明治天皇の前で初めて演奏されました。
しかし、このフェントン作曲の「君が代」は欧州風で歌いにくく、
日本人の音感にふさわしくないということになりました。
それで明治9年の天長節を最後に廃止されました。

そして1880年(明治13年)9月、国歌作曲改訂が進められました。
一般からの応募も考えられたが結局、
宮内省雅樂課でいくつか作られ、その中から奥好義(おくよしいさ)の作品が選ばれ、
一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作して、発表されたのが2代目の君が代です。
これに洋楽の和声をつけたのは、当時教師として日本に滞在していたドイツ人の
音楽家フランツ・エッケルトでした。(現在の君が代)

 *フェントンの奥さんは1871年40歳で死亡、外国人墓地に眠る。
 英仏楽隊の帰国命令後も日本に留まり、1877年(明治10年)に帰国。

ジョン・ウイリアム・フェントン作曲の初代・君が代(明治3年)    

現在の君が代(明治13年)    

 
    歌詞は初代も現代も同じです。(薩摩藩の琵琶歌から選定された)
   聴き比べて見てください。

軍楽生達が寄宿していた妙香寺の境内には、国歌君が代発祥の碑が立っています。


君が代発祥の地

薩摩藩の大山巌が数人と相談して、
平素自分が、愛唱している
琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、
その作曲をフェントンに頼んだということになっています。


妙香寺



鉄(かね)のトラス橋

吉田橋は、日本最初の無橋脚鉄橋です。現在の吉田町側から港町側の土手に架けられました。
しかし、作られた当初は鉄製ではなく、木製の橋でした。そして新興都市横浜の交通の中心で
あったが為に、すぐに損傷し、修繕を余儀なくされ、その際に鉄を使った橋に変わったのでした。

これは、地元の人々や在留公使・領事等から交通が多いので、
すぐに壊れない橋を作るようにとの要望を取り入れた結果であったようです。

修繕にあたっては、イギリスの土木技士であるリチャード・ヘンリー・ブラントンが
建設計画と設計を依頼され、イギリスから鉄材等を取り寄せ、1869年(明治2年)始めに着手、
10月に鉄橋として生まれ変わった姿を見せました。日本人にとって鉄製の橋は珍しく、

人々はこれを「カネの橋」と呼び、横浜名物の1つでもありました。「カネの橋」と呼ばれたのには
もう1つ理由があり、吉田橋を渡る時、番所で橋銭という通行料を払わなければなりませんでした。

時代が変わって橋の寿命も終わり、「カネの橋」は1911年(明治44年)、
遂に鉄筋コンクリートに作り変えられてしまいました。
今は、記念碑が立っており、当時の様子をわずかに知る事ができます。

現在の橋は1978年に完成した5代目です。
派大岡川は1971年に廃川となり、その跡に1978年に半地下構造の首都高速横羽線が開通した。
両岸の地上部は新横浜通りの上下線が通る。
この工事に合わせ、吉田橋も架け替えられました。


鉄(かね)の橋の説明板


プレ−トの説明文

明治2年1869年、英国人土木技師R.H.ブラントン
(RICHARD HENRY BRUNTON 1841-1901)
により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの
日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しま
れるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど
大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメ−ジし
て復元したものです。

(トラス橋は前年に長崎に作られています。)

ブラントン
明治元年1868年政府の招待により来日したプラントンは、
開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、
8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、
日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、
近代的なまちづくりに大きな足跡を残しました。


吉田橋関門跡の碑

説明文

安政六年(1859)六月二日、横浜が開港となって
交易場、貿易港として栄えるにしたがい、
幕府は、開港場の施設の充実にあたり、
陸路である東海道からの横浜路を
開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで
入海であったことから木橋を架け、
その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより
「吉田橋」と呼ばれました。

吉田橋が設置されてからは、当地は交通の
中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに
関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。

関門は、当初港町側
に設けられましたが、文久元年(1862)二月に
吉田町側に移設されました。

関内、関外という呼び名は
このとき以来で、関内は馬車道側、
関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は
明治四年に廃止されました。

横浜市教育委員会


現在の吉田橋

吉田橋から続く伊勢佐木町



大正活映撮影所

浅野良三とブロツキーが大正活映を立ち上げ日本映画界に参入した最大の目的は、
日本広報映画製作にあったのではなく、外国向けの劇映画製作にあったものと思われます。
早速撮影所建設も検討し、18年春には、現在の横浜元町公園の中にガラス張りの
撮影所が完成しています。
現在横浜市がこの撮影所跡に「大正活映撮影所跡」という石碑を建てています。

大正活映撮影所の跡

碑文

この撮影所は大正九年から十二年までの三年間という
短い期間ではあったが
フランス人アルフレッド・ジェラルドの煉瓦工場跡地の
この場所(元町一ノ七七ノ五)にあった。

「大正活映」は大正九年神奈川区子安を埋立、
アサノセメントを開始した経済界の大物浅野総一郎氏の
子息良三氏が創立した会社である。

この映画会社は、当時としては始めて映画界に
財界の資本が投入されたこと、またアメリカはハリウッド
で修行した栗原ト−マスを監督に招聘したこと、
さらに新進作家であった谷崎潤一郎を脚本顧問として
迎えたことなど近代的な映画制作を開始した
画期的な企業であった。

とりわけ脚本の谷崎潤一郎を慕い集まってきた多くの
青年の中には後年映画界で名をなした監督の内田吐夢、
二川文太郎、井上金太郎や俳優の岡田時彦、
江川宇礼雄等の姿があった。

会社の事情により短い年月の撮影所で終わったことは
残念ではあるが日本の映画界を目覚めさせ発展のために
一石を投じた業績は高く評価されるものである。

昭和五十九年十二月一日之建

元町自治運営会
共同組合元町SS会
横浜市観光協会


大正活映とは1920年、浅野が東洋フィルム会社の後に設立
した映画会社で、すでに東洋フィルム会社が使っていた撮影
所をそのまま使ったとされてます。


大正活映撮影所の記念碑


ガソリンスタンド

ここが発祥地という背景などの表示はありません。
記念碑だけがあります。


日本ガソリンスタンド発祥の地碑

説明文
エッソスタンダ−ド石油株式会社
取締役社長 八城政基氏記

昭和四十九年九月十九日
横浜米油株式会社
社主 熊澤貞吉 建之

丁度・横浜駅東口、横浜中央郵便局やシウマイの崎陽軒の
先・ヨコハマプラザホテルの前に建っています。



ヨコハマプラザホテル




近代道路(日本大通り)

我国で最初にマカダム舗装という近代道路を採用した舗装道路です。

慶応2年(1866)の大火災(豚屋火事・ぶたやかじ)後に防火帯を兼ねて計画・整備された
日本における近代街路の発祥地です。
イギリス人建築家リチャード・ブラントンの設計により、1872年(*明治4年)に
横浜公園と象の鼻波止場を結ぶ街路が日本初の西洋式街路としてほぼ完成しました。

この通りは1875年(明治8年)に「日本大通り」と名付けられました。
当初は幅員36m、18mの中央車道、左右に9m歩道+植樹帯が設けられていました。
関東大震災の復興事業により幅員が22mに削られ、左右の歩道+植樹帯も7mに削られたが、
2002年(平成14年)のサッカーWC開催に合わせ、完成当時に近い規模に復元されました。

港郵便局前交差点と開港資料館前交差点の間は国道133号の一部となっています。
2007年(平成19年)に国の登録記念物(名勝地関係)に登録されました。

*イチョウ並木は関東大震災の復興整備で昭和2年(1927年)から3年間をかけて植えられました。
平成23年1月に横浜市初の「景観重要樹木」に指定され、
将来にわたって保全されることとなりました。(約400mに65本あります)


日本大通り

看板により説明文

旧外国人居留地と日本人街を区分する街路で、
慶応2年(1866)の大火災後に防火帯を兼ね
て計画・整備された日本における近代街路の発祥地である。
当初は12mの中央車道の左右に3mの歩道と9mの
植樹帯が設けられていた。

設計者プラントンは、横浜公園や旧居留地地下水道など
横浜の都市基盤整備に主導的な役割をはたした
イギリス人技術者である。

沿道には、神奈川県庁本庁舎、旧英国総領事館、
旧横浜商工奨励館、旧横浜地方裁判所、
三井物産横浜ビルといった歴史的建造物が集積し、
横浜でも有数の歴史的景観を形成している。

所在地:中区日本大通り
構造・規模:幅員36m
建設年代:明治4年(1871)〜明治12年(1879)
設計:R.H.プラントン
施工:不明


日本大通り、横浜公園から撮りました

マカダム舗装
スコットランドの技術者J.L.マカダムが考案したことからマ
カダム舗装と名付けられるようになった。また、マカダム
舗装をマカダム式舗装、砕石舗装とも呼ぶ。他の舗装の
種類としては、アスファルト舗装や、コンクリート舗装、レ
ンガ舗装や、タイル舗装などが挙げられる。

当時の様子 (Y150看板より)


外国郵便創業

横浜に郵便制度が創始されたのは1871年(明治4年)の3月1日のことです。
その当時の名称は、「横浜郵便取扱所」と呼ばれていました。

当時は、外国から日本人宛に送られてきた郵便物は外国郵便局の私書籍の一つを
駅逓寮が借り受けて配達したり、日本人が海外に差し出す郵便物は、
駅逓寮が仲介して外国郵便局から発送していました。

これを見た前島密が、ブライアンをアメリカに派遣、1873年(明治6年)8月、
日米郵便交換条約の締結を果たし、1875年(明治8年)1月からの実施となりました。

これが外国郵便の始まりです。また、これにより、外国との直接郵便が可能となり、
同年の年始早々にアメリカ郵便局が廃止されました。そして、本町5丁目にあった
郵便役所では手狭な為、本町1丁目に木造西洋館が落成し、外国郵便開業式が行われました。

また、初代外国郵便課長はブライアンが勤め。その後、1879年(明治12年)にイギリス郵便局、
翌年の 1880年(明治13年)にはフランス郵便局が廃止され、外国郵便は完全に日本で
取り扱うようになったのです。

扱っていたのは横浜郵便局(現在の横浜港郵便局)であり、
その事をあらわすプレートが壁に貼り付けてあります。



[外国郵便創業の局]の銘板
場所:横浜港郵便局の入口階段横の壁。

現在の郵便制度は明治4年3月1日(1871年4月20日)に
始まり明治8年1月5日外国郵便開業式が行われました。こ
のときの横浜郵便局が現在の横浜港郵便局のあるところでし
た。

[外国郵便開始80年記念の碑]
台座には「郵便は世界を結ぶ」と書いてある。



場所:横浜港郵便局入口階段の左脇。
横浜港郵便局



金星太陽面経過観測

 内惑星である金星は、太陽と地球の間を584日毎に通過しています。
しかし、金星の公転軌道面は地球のそれとは3.4度ほど傾いているため、
太陽と地球と金星が一直線に並ぶ機会はとても少ない。その滅多に遭遇できない珍しい
現象が起こったのが1874年(明治7年)12月9日のことでした。

日本はこの観測の最適地であるとされ、世界各国から大勢の天文学者が渡来し、
横浜、神戸、長崎などに大規模な観測陣が敷かれ、
ここ横浜ではフランシスコ・D・コバルービアス隊長率いるメキシコ観測隊が
野毛山に観測場を設置し、観測にあたりました。 当時メキシコ隊が観測機器を
据え付けた台石が現在も民家の一角に残っています。 横浜の観測地点として第1観測地点は、

この石碑のある野毛山で、第2観測地点は山手でした。また、 当時の金星太陽面経過観測に
関しては、 天文学でも地球から太陽面の距離が正確にはわからなかったため、
太陽面上を通過する金星を地球上の各地で観測することで天文単位を算定していました。
この記念碑は、この観測の成功を記念し、100年後の1974年(昭和49年)に建立されたものです。



金星太陽面経過観測記念碑

碑文

明治7年(1874年)12月9日
メキシコ観測隊(隊長フランシス
コ・ディアス・コバシ−ビアス)ならびに日本水路寮の
海軍中尉吉田重親らは下記地点において
金星の太陽面経過の観測に成功した。

ここに100年の記念日を迎え神奈川県及び横浜市の
協力を得てこの碑を建て後世に伝える。

第1観測地点(野毛山)東経139°37′48″
              北緯35°26′46″
第2観測地点(山 手)東経139°39′02″
              北緯35°25′07″

昭和49年(1974年)12月9日

金星太陽面経過観測記念碑建立期成会


「金星太陽面経過観測記念碑」の建っている
県立青少年センターです。

金星の太陽面通過とは

今回の金星の太陽面通過は1874年(明治7年)以来、
実に130年ぶり、世界的にも1882年以来の
122年ぶりの現象となります。

この現象は、金星が地球から見てちょうど
太陽の方向を通過するために、太陽の表面を
黒い点となって動いていく現象です。

かつては、この現象を地球上の複数の地点で
観測すると、金星と地球、あるいは太陽と地球との
距離という、宇宙の距離の基準となるべき距離の
絶対値を決めることができる大事な
現象だったため、
各国が競って観測隊を出していました。

今では、こういった天文学的な重要性は
薄れてしまいましたが、それでも非常に稀な
現象であるために、天文教育や普及の教材として
活用が考えられています。

日本では今回の太陽面通過の全過程を見ることは
できませんが、次回、8年後の2012年6月6日に
起きる金星は太陽面通過では可能となります。
金星が太陽に入り込むのが午前7時過ぎ、
通過終了が13時過ぎとなります。

この時期には日の出のおそい福岡でも6時には
太陽は昇っているので、日本で全過程を観察する
ことができるのです。
なお、これを逃すと、その次は22世紀、
105年後の2117年12月10日まで見ることはできません。

「国立天文台のHP」から引用しました。

2004.6.8の金星の太陽面通過
国立天文台のHPにリンクしています。





日本人の経営による民間病院

横浜は、1859年の開港以来、西洋文化の入り口となり、医学においても、
明治初期よりアメリカ医学の中心地でした。横浜に最初にできた西洋医学の病院は
軍人のための病院でしたが、明治4年に民間人のための横浜仮病院が設立され、

続いて横浜中病院、横浜共立病院、十全病院と名称、場所を代えながら発展しました。
明治7年に建築された十全病院が、横浜市立大学医学部付属病院の前身です。


中村川沿いの市大病院の駐車場脇小さい公園に、
この発祥の碑があります。

発祥の碑(原文)

横浜市十全病院は明治五年八月二十日中区太田町に
創始する 横浜中病院を以って其の発祥とす 

翌六年十二月老松町に移築し共立病院と呼び
七年二月十全院医院と改称せり顧みれば当時本邦の
医学に尚は未だ幼稚なりしも本院は

夙に種痘其の他嶄新なる療法を実施せるが爲..
其の..誉..近に昴り加ふるに..年内容を整備し治療に..た
防疫に事績極めて顕著なりき 然るに大正十二年九月
..古の大震火災に遭ひ全院鳥有に..したるを以て
....平沼氏邸を..用し災後の応急要務を遂行し
十数萬の患者を診療せり ..くも 皇后殿下の行啓を..
ふせしに實にこの年十一月五日なり 

かくて翌十三年六月地を現在の浦舟町に相し..病舎
を設けて移転し更に復興工事を計量し
十五年十一月本館の竣工を告げ翌昭和二年六月二日.
.くも秩父宮殿下御巡察の光栄に浴す ..後逐次病棟の増営及
設備の充実を遂げ現今の盛運を呈するに至れり 

懐ふに其の克く斯の如きは..に上 皇室の御恵達と
官民大方の仁情に由るものなり 
今や皇国未曾有の重大事難に直面し本院の使命
亦..重きを覚ゆるに際し本院創立七十年を算す誠に
意義深きものあるを感じ..に来歴を要録して記念となす

昭和十七年八月二十日

横浜市長 正四位勲三等 半井清

(..は難しい漢字で判読できませんでした)


横浜市立大学医学部付属病院


野毛山の十全病院








日本メソヂスト

メソジスト(Methodist)とは、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興された
キリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム(Methodism)に生きた人々、
および、その運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々を指します。

メソジスト運動は、本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、
アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、メソジスト教団は、
現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団です。



メソヂスト教会発祥の碑
民家の玄関脇にあります。




記念碑(原文)

アメリカ合衆国メソヂスト教会派遣宣教師
R.Sマクレ−は1875年この地に会堂を建て
天安堂と称し、6月20日初めて礼拝を行った。

これが日本メソヂスト教会の起源である。

日本キリスト教団横浜上原教会の
創立100年記念事業としてこれを建てる。  

1977.6.20

THE SITE OF THE FIRST METHODIST
 CHURCH IN JAPAN

1875



誠愛剣法発祥の地

「己に勝つ事の出来る子供を育てる」という目的で, 1970年に宍戸三郎氏が 横浜市西区で
「誠愛剣友会」を設立しました。これを記念して 「誠愛剣法発祥地」碑が建てられました。
「誠」:誠実であれ,「愛」:人を愛し敬う を指導方針として 30年以上 活動しています。

浅間神社は, 富士山信仰(浅間信仰)と結びついて 全国各地に建てられていますが,
ここ 横浜・西区の浅間神社は, 平安時代中期の 1080年 の創祀といいますから, 非常に古いです。



誠愛剣法発祥地の碑

説明文や碑文がありません。

場所:神奈川県横浜市西区浅間台
浅間台の 小高い山の上に, 浅間神社が建っている。
この神社の境内, 拝殿に向かい合う位置に
写真の碑がある。


神社内は幼稚園が併設されています。
見学にはご注意下さい。


発祥地碑のある浅間神社



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