■我が国初の洋式公園■
山手町一帯は, 横浜の開港にともなって 外国人が居住するための居留地がおかれた地域。
山手公園は居留する外国人が 日本政府から約6千坪の土地を借りて
自らの資金で開設した“外国人専用”の公園で, 1870(明治3)年5月6日に開園し、
日本最初の洋式公園となりました。
その後 経済的な理由で 居留民が公園を維持できなくなり, 日本政府に返還された。
同時期に創設されたテニスクラブ(レディズ・ローンテニス & クロッケー・クラブ)が{ローン=芝生}
公園の管理をする代わりに 公園の 1/4 をテニスコートとして利用することが許可された。
太平洋戦争後, 公園は 米軍に接収されたが, 1952(昭和27)年に返還された。
[我が国初の洋式公園の碑]
場所:山手公園テニスクラブハウス前
当時の野外音楽堂を彷彿させる東屋
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碑の左にある説明板
説明文
〜日本最初の様式公園〜
横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の
遊園地を望む声があり、慶応三年(1866)に
外国公使団との間で結ばれた
「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」
(慶応約書)によって、
その要求が幕府に認められました。
しかし、この中の公園計画は具体化しないで
終わりました。
明治2年(1869)に居留民代表から改めて
要求が出されたのに対して、日本政府は
山手妙光寺付近の土地、約6千坪を、
慶応約書で約束した土地の代替地として
貸与しました。公園の造成は居留民が行い、
明治3年5月6日(1870年6月4日)に
開園したのが山手公園です。
明治11年(1878)からは居留外国人女性で
組織される
横浜レディ−ス.ロ−ン.アンド.テニス.
アンド.クロッケ−.クラブ(横浜婦女弄麹社)が
管理することになり、クラブハウスとコ−トが
ここに設けられました。
横浜教育委員会
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