義経ゆかりの地を訪ねて
NO.2
    

〜腰越・満福寺〜  地図



江ノ電・腰越駅
NHKの大河ドラマの放映で注目の駅です。
派手な「義経まつり」の看板が一際目立ちます。


入口看板
腰越駅の線路を越えて、大きな通り国道467号に出る。そこから海岸に向って80mほど進むと「満福寺」の石塔及び看板が目に入ってきます。(写真)

入口石塔

寺門へ続く階段
線路は江ノ電



満福寺本堂
壇ノ浦の戦いで平氏討伐を遂げた義経が頼朝から鎌倉入りを
許されず、弁慶らとともに逗留したお寺で、義経が鎌倉入りの
泣訴状(腰越状) をしたためたお寺として有名です。

毎年4月の第3土曜日には、義経まつりも開催されます。
今年(2005)は4月16日です。


襖絵、腰越状は満福寺本堂の玄関に置かれている箱に、
拝観料(お気持)を入れて拝見できます。

腰越状を書いた時に使用した墨

腰越状の実物大の版木

 
原文  腰越状
元暦二年五月二十四日

廿四日戊午。源廷尉(義経)如思平 朝敵訖。剰相具前内府参上。其賞兼不疑之処。日来依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間。愁欝之余。付因幡前司広元。奉一通款状。広元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。彼書云。

 左衛門少尉源義経乍恐申上候。
意趣者。被撰御代官其一。為 勅宣之御使。傾 朝敵。顕累代弓箭之芸。雪会稽恥辱。可被抽賞之処。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘気之間。空沈紅涙。倩案事意。・良薬苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者実否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送数日。当于此時。永不奉拝恩顔。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉。此条。故亡父尊霊不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懐。義経受身体髪膚於父母。不経幾時節。故頭殿御他界之間。成無実之子。被抱母之懐中。赴大和国宇多郡竜門牧之以来。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之経廻難治之間。令流行諸国。隠身於在在所所。為栖辺士遠国。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而為平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。為責傾平氏。或時峨峨巌石策駿馬。不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事。剰義経補任五位尉之条。当家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非仏神御助之外者。争達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王宝印之裏。全不挿野心之旨。奉請驚日本国中大少神祇冥道。雖書進数通起請文。猶以無御宥免。其我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。

義経恐惶謹言
 元暦二年五月日
左衛門少尉源義経 進上 因幡前司殿
意訳 腰越状

源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。

あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔ににお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう。

亡くなった父の御霊が再びこの世に出てきてくださらない限り、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。あの木瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく、父はなくなり、母に抱かれて、大和国の宇多郡、龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。その当時、京都も動乱が続き、身の危険もあったので、色々なところへ隠れたり、遠い国へ行ったり、そして土地の民や百姓に世話になり、何とかこれまで生き延びてきました。

たちまち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、飛び立つ思いで急いで駆けつけましたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに義仲を倒し、次ぎに平家を攻めました。ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊をお休めする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。

その上、さむらいとして最上の官位である五位の尉に任命されましたのは、自分だけではなく、源家の名誉でもありましょう。義経は野心など少しもございません。それにもかかわらず、このようにきついお怒りをうけては、この義経の気持ちをどのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。神仏の加護におすがりするほかはないように思えましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書を差し上げましたが、お許しがありません。

わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、あなたの慈悲に頼る以外は無くなってしまいました。情けをもって義経の心のうちを、頼朝殿にお知らせいただきたいと思います。もしも疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。

ただただ長い不安が取り除かれて、静かな気持ちを得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断を。 

義経
元歴二年五月 日
源義経
進上因幡前司殿(大江広元)

この原文、意訳はサイト「義経伝説」のご厚意で掲載させていただいているものです。
したがって無断転載は固くお断りいたします。

腰越状750年記念碑
  
義経の慰霊碑
  

弁慶の腰掛石

弁慶の手玉石

義経公手洗いの井戸
本堂の裏にあります。右側より廻れます。

弁慶が墨をするのに水を汲んだ硯の池
右端に少しだけ残っています。

鐘楼
満福寺は、行基上人が76歳の天平16年(744)に
開いた寺と言われています。

義経宿陣の跡碑
  
襖絵
32面あるといわれる襖絵は義経、静、弁慶らが表情豊かに描かれています。鎌倉彫の技法を取り入れた漆絵です。
(襖そのものは32面ありませんでした。襖絵は日によって入れ替えがあるのか?)

腰越状をしたためる義経
結局頼朝には聞き入れられず、これより追われる
身となり、悲劇の旅が始まる。

弁慶の立往生
衣川の戦いで数百本の矢を受け立往生したとも
いわれている。

平泉への道
鎌倉を追われ雪の中を平泉の藤原氏の
もとへ向う弁慶と義経。

静御前と義経

義経を追い旅立つ静御前


静、我かが子との別れ
義経の子を生んだ静は頼朝の命により子を取り上げられ、
由比ケ浜の砂浜に埋められたとも伝えられています。

傷ついた義経
衣川の戦いに敗れ、衣川で自害したと伝えられている。

静の舞
義経を慕い舞い踊る静


 
腰越の海岸
腰越は、江ノ島の目と鼻の先にある小さな漁港である。小道崎
の前には、腰越漁港があり住所は鎌倉市になります。
この先が鎌倉の由比ケ浜、材木座海岸です。
  
  

満福寺・寺門から見た江ノ電
転んだら大変です。注意してください。

腰越駅のホ−ム
民家とスレスレに行き交う江ノ電の電車
腰越辺りが一番接近していて、30cmほどの所もあります。
    

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