|  | ---------------------------------------------------------------------- 源義経
 源義朝の九男で源頼朝の異母弟にあたります。生後間もなく父義朝が敗死した為捕えられたが助命され、鞍馬寺に預けら
 れました。しかし同寺を脱走し、奥州平泉の藤原秀衡を頼っていましたが、治承4年(1180)頼朝挙兵の報を聞くや直ちにそ
 の軍門に参じ、駿河国黄瀬川で頼朝と対面しました。平家との一ノ谷における戦いでは「鵯越の逆落し」によって平家方に壊
 滅的な打撃を与え屋島・壇ノ浦でも果敢な戦いぶりを示し、遂に平家を壊滅させることに成功しました。
 しかしこの追討の最中、後白河法皇の意のままに頼朝の認可を得ずして検非違使・左衛門少尉に任官してことが頼朝の勘
 気に触れ、兄弟間の溝は次第に深まっていきます。文治元年5月鎌倉に赴いた時も、鎌倉入りを拒否され、弁疏の書状を認
 めました。これが有名な「腰越状」です。しかし許されることなく、終には反逆を決意。九州を目指しましたが失敗し、再び奥州
 平泉へと赴きました。しかし秀衡の死後、鎌倉からの圧力に屈したその子泰衡によって衣川の館を襲撃され、自刃して果て
 ました。時に31歳。義経は卓越した軍事的才能を持ちながら、兄頼朝が武士政権樹立という政治的課題に如何に腐心して
 いたかを理解し得なかったことが、この悲劇の原因といえます。
 (参考資料:鶴岡八幡宮)
 *義経年表
 1159年 源義経誕生。平治の乱で父・義朝破れる
 1169年 京都・鞍馬寺に預けられる
 1174年 鞍馬を抜け出し、奥州へ
 1180年 頼朝、鎌倉入りし八幡宮を移転。義経と頼朝対面
 (以降3年間、鎌倉に)
 1184年 一ノ谷の戦い
 1185年 屋島の戦い
 壇ノ浦の戦い。平家滅亡。
 鎌倉入り許されず、腰越状書く。
 吉野へ逃れ、愛人・静と別れる
 1186年 静、鶴岡八幡宮で舞う
 1189年 奥州衣川で自害。享年31歳。
 首のみ奥州から腰越へ
 1192年 頼朝、征夷大将軍に。鎌倉幕府誕生
 
 
 
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                |  | 〜源義経首洗い井戸〜  地図
 
 
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 | 首洗い井戸への入口
 首を洗ったと言われる「首洗い井戸」は、白旗交差点近くの街角
 にひっそりとあります。その交差点を渡りマンションの前に左の
 ような小さな「伝源義経首洗井戸」という立て札が見えるます。こ
 こを左折し細い路地の奥に小さな公園がありますが、その一角
 にあります。
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 | 首洗い井戸全景 
 自刃した義経の首は、腰越で首実検の後、浜に捨てられまし
 た。その首は金色の亀の背に乗って境川を上り、藤沢の里人に
 拾い上げられ、近くの井戸で洗い清め、葬られたと伝わっていま
 す。
 
 
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                 |  首洗い井戸
 首洗い井戸の脇にある石(木の根っこの長い)には「九郎
 尊神」と刻まれています。
 
 |  首塚
 この碑には下のような文が刻まれています。
 
 武蔵坊弁慶弁慶之霊
 九郎判官源義経公之首塚
 亀井坊 伊勢坊
 片岡坊 駿河坊
 各霊
 
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                |  | 〜荘厳寺〜  地図
 
 
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  荘厳寺境内
 もとは白旗神社の別当で、義経の位牌(1832年作)
 が祀られています。
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                |  | 〜常光寺〜   地図
 
 
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 | 常光寺山門 荘厳寺を出て、JR藤沢駅に向かって80mほど進むと看板が見
 えます。境内裏には、弁慶を供養したといわれる弁慶塚があり
 ます。
 
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                 |  弁慶塚
 常光寺の裏に弁慶塚があります。(前右側)
 |  弁慶塚拡大
 石の表面は削った上に弁慶の字が掘られている。
 
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                |  | 〜白旗神社〜   地図
 
 
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  白旗神社の白い大鳥居
 商店街の路地を抜けると、大きな道にでます。そこを
 左に進むと、白旗神社の大きな鳥居が目に入ります。
 
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 白旗神社は寒川神社の分社として1198年に建立。
 義経を祭神として祀るようになったのは
 1249年からだそうです。
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                |  |  源義経公鎮霊碑
 1999年6月13日義経公810年祭に建立された鎮霊碑
 
 |  鎧甲をイメージした碑の両支柱には、源氏家紋の
 ササリンドウが見えます。
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                |  |  義経公810年祭鎮霊碑の看板文
 
 下記は書かれている内容。
 源義経公鎮碑
 文治五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高
 館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し壮烈な最期
 を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に
 葬られ、また一方御首は奥州路を経て、同年六月十三日、
 腰越の浦で首実検後に棄てられたが、潮に逆流し白旗神
 社の近くに流れ着き、藤沢の里人により洗い清められて葬
 られたと語り伝えられる。本年源義経公没後八百十年を記
 念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わ
 せ祀る鎮霊祭を斉行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。
 平成十一年六月十三日
 白旗神社
 
 
 |  義経松とあるが、松の木はなかった。
 移植されたのか?それとも枯れたのか?
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                 |  白旗神社本殿
 
 |  毎年7月の例大祭では義経と弁慶のみこしが登場します。
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                |  |   |  弁慶の力石
 白旗神社は弁慶の名の付くものが多いです。
 
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                弁慶藤
 
                境内には二種類の藤が植えられています。
 
                白い義経藤は白旗を、紫の弁慶藤は薙刀を表すといわれ、花房が1m以上にもなります。その側に、「草臥て 宿から比や 藤
 の花」という芭蕉の句碑があります。
 
 
                
 
                花の見ごろは5月上旬だそうです。 
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                | 
                  
 |  芭蕉句碑
 「草臥て 宿から比や 藤の花」
 文化2年建
 |  弁慶松
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