義経ゆかりの地を訪ねて
藤沢〜鎌倉
NHK大河ドラマでも注目の源義経。800年以上の時を超え、未だに高い人気を誇る歴史上のヒーローですが、
わずか31年の生涯の内で生み出した伝説は数知れず。鎌倉幕府のお膝元であった鎌倉、藤沢の地に義経と
深いかかわりのある場所があります。その「義経ゆかりの地」を歩いてきました。   

コ−ス 小田急藤沢本町駅--義経首洗井戸--荘厳寺--常光寺--白旗神社--小田急藤沢本町駅--江ノ電腰越駅--満福寺--
      江ノ電腰越駅--江ノ電鎌倉駅--鶴岡八幡宮--JR鎌倉駅

所要時間 約5時間                      
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源義経
源義朝の九男で源頼朝の異母弟にあたります。生後間もなく父義朝が敗死した為捕えられたが助命され、鞍馬寺に預けら
れました。しかし同寺を脱走し、奥州平泉の藤原秀衡を頼っていましたが、治承4年(1180)頼朝挙兵の報を聞くや直ちにそ
の軍門に参じ、駿河国黄瀬川で頼朝と対面しました。平家との一ノ谷における戦いでは「鵯越の逆落し」によって平家方に壊
滅的な打撃を与え屋島・壇ノ浦でも果敢な戦いぶりを示し、遂に平家を壊滅させることに成功しました。
しかしこの追討の最中、後白河法皇の意のままに頼朝の認可を得ずして検非違使・左衛門少尉に任官してことが頼朝の勘
気に触れ、兄弟間の溝は次第に深まっていきます。文治元年5月鎌倉に赴いた時も、鎌倉入りを拒否され、弁疏の書状を認
めました。これが有名な「腰越状」です。しかし許されることなく、終には反逆を決意。九州を目指しましたが失敗し、再び奥州
平泉へと赴きました。しかし秀衡の死後、鎌倉からの圧力に屈したその子泰衡によって衣川の館を襲撃され、自刃して果て
ました。時に31歳。義経は卓越した軍事的才能を持ちながら、兄頼朝が武士政権樹立という政治的課題に如何に腐心して
いたかを理解し得なかったことが、この悲劇の原因といえます。
(参考資料:鶴岡八幡宮)
*義経年表 
1159年 源義経誕生。平治の乱で父・義朝破れる
1169年 京都・鞍馬寺に預けられる
1174年 鞍馬を抜け出し、奥州へ
1180年 頼朝、鎌倉入りし八幡宮を移転。義経と頼朝対面
  (以降3年間、鎌倉に)
1184年 一ノ谷の戦い
1185年 屋島の戦い
  壇ノ浦の戦い。平家滅亡。
  鎌倉入り許されず、腰越状書く。
  吉野へ逃れ、愛人・静と別れる
1186年 静、鶴岡八幡宮で舞う
1189年 奥州衣川で自害。享年31歳。
  首のみ奥州から腰越へ
1192年 頼朝、征夷大将軍に。鎌倉幕府誕生
義経
弁慶
静御前

        

〜源義経首洗い井戸〜  地図





首洗い井戸への入口
首を洗ったと言われる「首洗い井戸」は、白旗交差点近くの街角
にひっそりとあります。その交差点を渡りマンションの前に左の
ような小さな「伝源義経首洗井戸」という立て札が見えるます。こ
こを左折し細い路地の奥に小さな公園がありますが、その一角
にあります。


首洗い井戸全景 

自刃した義経の首は、腰越で首実検の後、浜に捨てられまし
た。その首は金色の亀の背に乗って境川を上り、藤沢の里人に
拾い上げられ、近くの井戸で洗い清め、葬られたと伝わっていま
す。

  

首洗い井戸
首洗い井戸の脇にある石(木の根っこの長い)には「九郎
尊神」と刻まれています。

首塚
この碑には下のような文が刻まれています。 

武蔵坊弁慶弁慶之霊
九郎判官源義経公之首塚 
亀井坊 伊勢坊 
片岡坊 駿河坊
各霊

〜荘厳寺〜  地図





荘厳寺境内
もとは白旗神社の別当で、義経の位牌(1832年作)
が祀られています。

 

〜常光寺〜   地図



常光寺山門
荘厳寺を出て、JR藤沢駅に向かって80mほど進むと看板が見
えます。境内裏には、弁慶を供養したといわれる弁慶塚があり
ます。
  

弁慶塚
常光寺の裏に弁慶塚があります。(前右側)

弁慶塚拡大
石の表面は削った上に弁慶の字が掘られている。

〜白旗神社〜   地図



白旗神社の白い大鳥居
商店街の路地を抜けると、大きな道にでます。そこを
左に進むと、白旗神社の大きな鳥居が目に入ります。



白旗神社は寒川神社の分社として1198年に建立。
義経を祭神として祀るようになったのは
1249年からだそうです。

源義経公鎮霊碑
1999年6月13日義経公810年祭に建立された鎮霊碑
 
鎧甲をイメージした碑の両支柱には、源氏家紋の
ササリンドウが見えます。

義経公810年祭鎮霊碑の看板文

下記は書かれている内容。
源義経公鎮碑
文治五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高
館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し壮烈な最期
を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に
葬られ、また一方御首は奥州路を経て、同年六月十三日、
腰越の浦で首実検後に棄てられたが、潮に逆流し白旗神
社の近くに流れ着き、藤沢の里人により洗い清められて葬
られたと語り伝えられる。本年源義経公没後八百十年を記
念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わ
せ祀る鎮霊祭を斉行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。
 平成十一年六月十三日 
白旗神社


義経松とあるが、松の木はなかった。
移植されたのか?それとも枯れたのか?
  

白旗神社本殿

毎年7月の例大祭では義経と弁慶のみこしが登場します。

弁慶の力石
白旗神社は弁慶の名の付くものが多いです。
 

弁慶藤
境内には二種類の藤が植えられています。
白い義経藤は白旗を、紫の弁慶藤は薙刀を表すといわれ、花房
が1m以上にもなります。その側に、「草臥て 宿から比や 藤
の花」という芭蕉の句碑があります。

花の見ごろは5月上旬だそうです。 
  
  

芭蕉句碑
「草臥て 宿から比や 藤の花」
文化2年建

弁慶松
 

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