横浜・山手散歩
〜NO.2〜
NO.1 ■NO.2 NO.3
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山手234番館

元町公園のエリスマン邸の斜向かいに、山手本通りに
面して山手234番館が建っています。この建物は関東
大震災後の1927年(昭和2年)、外国人のための共同
住宅として建てられたもので戦後間もなくは米軍によっ
て接収されていた時代もあったらしいが、1989年歴史
的建造物や景観の保全に積極的だった横浜市がこれを
取得、その後、改修、整備を施して1999年(平成11年)
に現在の「山手234番館」として開館しました。


元町公園(上部入口)に建つ、しゃれた電話BOX。
景観にマッチした造りになっています。
     
山手本通り

港の見える丘公園の前から尾根を伝って西に延びる山手本通りは両脇にさまざまな洋館が並んでいます。
     
エリスマン邸

元町公園の敷地内の一角、山手本通りに面して建って
います。緑の木立に囲まれて建つ風情も美しく、山手散
策を楽しむ観光客を集めています。エリスマン邸はスイ
ス人貿易商エリスマンの私邸として1926年(大正15年)
に建てられたものです。エリスマンは1940年(昭和15
年)に亡くなり、今は横浜の外国人墓地に眠っていま
す。


    
えの木邸

 えの木邸は、昭和2年(1927)に山手234番館ととも
に震災後、外国人向けに建てられた喫茶店で、1階の
リビングルームを喫茶店として使用しています。店内に
は、暖炉、木製の上げ下げ窓、150年以上昔のアンテ
ィーク家具を今も使い、香り高いお茶と高級な自家製ケ
ーキが人気です


     


ベーリックホール

この建物はバートラム・ロバート・ベリックの私邸として、1930年(昭和5年)に建てられました。ベリックは英国の貿易商で、もともとこの場所にはベリックの自邸があったが、関東大震災によって崩壊、その後にベリックがJ.H.モーガンに依頼してこれを建てました。
   
山手80番館遺跡

元町公園西側、エリスマン邸の横にあります。かつては
鉄筋補強のレンガ造りによる三階建ての建物であった
が、関東大震災で倒壊、現在残っているのはその地下
室部分です。遺跡の傍らを辿る散策路から張り出すよう
に展望デッキが設けられ、緑多い公園内部を見下ろし
ています。 
山手80番館遺跡の説明プレ−ト
    
元町公園

エリスマン邸のすぐ下、外国人墓地の西に隣接し、尾
根の間に入り込んだ、「谷戸」の地形の立地で低地とな
った公園中央部にはプールや弓道場などが置かれ、そ
の周囲を木々に覆われた斜面が囲んでいます。春の桜
の名所としても知られています。
プール管理棟

この付近は明治の初めにフランス人の実業家ジェラールが船舶給水業を営んだ場所としても知られている。湧き水を簡易水道で引き、外国船に飲料水として売りました。

瓦とレンガ」に関する解説板

またジェラールはこの地で西洋瓦とレンガの製造も手が
けている。現在のプール管理棟の屋根の一部に、この
西洋瓦が用いられています。プール管理棟の傍らに、
「ジェラール水屋敷」と「ジェラールの瓦とレンガ」に関す
る解説板が設置されており、ジェラールの水は「インド洋
に行っても腐らない」と明治期の船乗りたちの間で評判
になったといったことが記されています。
ジェラ−ルの水屋敷

横浜の市街地の井戸の水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。いっぽう丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、この点に着目したジェラ−ルは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラ−ルの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼
ぶようになりました。

水屋

上水道が整備されるまでは、こうして湧水を汲んで市中
を売り歩く「水屋」の姿も見られました。
    
ヨコハマ猫の美術館

ヨコハマ猫の美術館は、山手資料館、聖公会教会、
ブリキのおもちゃ博物館に囲まれた西洋館風の瀟洒な
建物の一階にあります。展示室には、藤田嗣治がエコ
ール・ド・パリの画壇で活躍していた時代の1920年頃に
パリで刷られたエッチングを中心として、近代版画の先
駆者である小林清親(木版)を始め、山村耕花(木版)、
中村直人(油彩)、山本蘭村(墨彩)などの物故作家の
貴重な作品が斉藤清(木版)、馬越陽子(油彩)、赤堀
郁彦(漆絵)、高橋行雄(ドローイング) 小山陽子(パス
テル)、朝倉摂(リトグラフ)、佐藤国男(木版)の作品と
併せて展示されております。
    
ブリキのおもちゃ博物館

ヨコハマ猫の美術館のそばに建つブリキのおもちゃ博物館には、おもに日本製の玩具約3.000点を常設展示し、またビデオ上映でその動きも紹介しています。これらのおもちゃは1890年代から1960年代に作られたもので、北原照久館長が1973年ごろから収集した約16.000点のうちの一部です。自宅などではコレクションに限界があるためたくさんの人たちに見てもらいたい、そんな思いから1986年4月に博物館をオープンしたそうです。
     
山手本通りには案内板の数多くあり、迷わなくてすみます。
    
横浜雙葉学園

横浜雙葉学園は、明治5年(1872)に来日したカトリックの女子修道海サン・モール会の修道女メール・マチルドによって創立された、カトリックの女学校です。
その起源は、1872年山手83番に設立された孤児院「仁慈堂」にあります。当時、横浜は捨て子や孤児が多く、「仁慈堂」は350人もの子供と80人の乳幼児を収容し、明治8年(1875)には正式な孤児院として認可されました。やがて、孤児達に普通教育を授ける女学校に発展して、1902年菫(すみれ)女学校となりました。
フェリス女学院中学校・高等学校

 「フェリス女学院」、メアリー・キダーによって1870(明
治3)年に設立された、日本で最初の私立女学校です。
フェリスの校名は、キダーを派遣したアメリカ改革派外
国伝道協会のフェリス博士にちなんだものです。
1875年に山手の現在地に校舎を建築して移転しましたが、関東大震災で大きな被害を受け震災後再建の1号館は、1929(昭和4)年の建設で、信州産の鉄平石を外壁に用いています。 この鉄平石は、関東大震災で倒壊した校舎を建て直した際、生徒から集めた一銭募金で賄われたものでした。こうした重厚な外壁と校庭に植えられた松の緑が美しい調和をもっています。 
   
山手本通りにある洒落たレストラン。
    
カトリック山手教会

薄緑の尖塔が印象的なカトリック山手教会は1862年
(文久2年)に山下町に建てられた横浜天主堂からの歴
史を引き継ぐ教会です。横浜天主堂は開港後に初めて
建てられたキリスト教会堂でした。やがて山手が外国人
住宅地として発展したのに伴い、教会は山手44番に双
塔のゴシック様式煉瓦造りの教会堂を1906年(明治39
年)に建設、活動の拠点を移しました。その教会堂も関
東大震災で倒壊、現在の建物は1933年(昭和8年)に
再建されたものですが、鐘は創建当時のものが現存
し、庭のマリア像も1868年(明治元年)にフランスから贈
られたものです。
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