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港の見える丘公園
港の見える丘公園は、その名の通り横浜港を見下ろす
高台にあります。かつて横浜開港期にイギリスとフラン
スの軍隊が駐屯した場所としてよく知られています。
戦後、この場所は米軍に接収されたが、接収解除後に
公園用地として取得、昭和36年から整備され、昭和37
年に「港の見える丘公園」として開園しました。
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フランス山
港の見える丘公園の高台と山下公園の間の緑地帯が
フランス山で、高台から下る、山下公園から人形の家の
脇を経てフランス橋を渡る、元町の奥の谷戸坂の下、谷
戸坂の途中などから入れます。夜間は立入禁止です。
左の画像はマリンタワ−の展望台から撮りました。
港の見える丘公園から見たフランス山
1923(大正12)年、関東大震災により、領事館・領事官
邸ともに倒壊します。その後1930(昭和5)年に再建さ
れましたが1947(昭和22)年に火災で焼失してしまいま
す。現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分
です。
遺構は園内の工事の為、撮れませんでした。 |
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フランス山のレンガ造り井戸
明治29年(1896年〉 にフランス領事館とその官邸が建
設きれた時、このフランス山にはレンガ造りの井戸が掘
られ、今はその遺構が残されています。 |
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霧笛橋
大佛次郎記念館と神奈川近代文学館を結んでいます。 |
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神奈川近代文学館
神奈川県は、とりわけ開港以来の歴史の中で多くの文
人に親しまれました。その歴史や文人達の足跡を一堂
に展示しているのがここです。夏目漱石、芥川龍之介、
川端康成、大彿次郎、谷崎潤一郎、三島由紀夫など、
日本の文壇を彩った著名文人の原稿などが展示されて
います。
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大佛次郎記念館
横浜ゆかりの偉大な作家「大佛次郎」の業績と生涯を
様々な資料で紹介しています。大佛次郎は横浜に生ま
れ、そして横浜を最も多く描いた作家です。中でも「霧
笛」「幻橙」は開化期の横浜を愛惜をこめて描いた名作
として今も多くの人々を魅了しつづけています。 |
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ローズガーデン
ローズガーデンは,港の見える丘公園を拡張した山手
111番館周辺と既設のバラ園を一体的に整備した洋風
庭園です。バラをはじめとして四季折々の花を楽しむこ
とができます。 |
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山手111番館
山手111番館は1999年(平成11年)に公園が再整備さ
れた際、「ローズガーデン」の開園と同時に開館し、以
来港の見える丘公園の新しい魅力のひとつとして観光
客を集めています。
この建物は横浜山手聖公会やベーリックホール、根岸
競馬場観覧席などで知られるアメリカ人建築家J.H.モ−
ガンの設計によるもので、1926年(大正15年)に当時横
浜で両替商を営んでいたラフィンの居宅として現在地に
建築されたものだそうです。
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横浜市イギリス館
横浜市イギリス館は、昭和12年に(1938)にRC2階、
地下1階、の構造で横浜英国総領事公邸として建てら
れたコロニアルスタイルの建築です。昭和44年に横浜
市が取得し、翌年からは市民利用施設として、1階ホー
ルはコンサートやピアノ発表会に、2階集会室は会議等
に利用されています。平成2年(1990)11月に横浜市
指定歴史的文化財に指定され、平成14年1月からは2
階に展示室と復元室を設けて一般公開をしています。
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岩崎博物館
岩崎博物館は、関東大震災で崩壊してしまったゲーテ
座の跡地にゲーテ座を記念して1980(昭和55) 年、学校
法人岩崎学園・横浜洋裁学院(現:横浜fカレッジ)の創
立50周年記念事業の一貫として、当時のゲーテ座の資
料や、世界の服飾装飾品などを展示する博物館として
出発しました。
この地は「横浜本町通りゲーテ座」(1870/明治3年創
立) の創始者、オランダ人ヘフトに続いて、横浜在住外
国人達の発案のもとに、フランス人建築家サルダの設
計によって1885(明治18)年に建てられた商業劇場ゲー
テ座の跡地の一部です。
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ゲーテ座
ゲーテ座とは、明治・大正時代に横浜在留の外国人、
特に英国人がアマチュア演劇や音楽会を楽しんでいた
小ホールのことで、西洋人による生の西洋演劇に触れ
ることのできる当時唯一の劇場として、坪内逍遙や北
村透谷といった文豪たちが足繁く通ったホールであるの
だそうです。 岩崎博物館の1階にある小さなホールが
山手ゲーテ座で、かつてのゲーテ座を偲ぶ意味から名
づけられたそうです。 |
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岩崎博物館の前の山手本通りで、奥に見えるのが港の
見える丘公園です。 |
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外国人墓地
「外国人墓地」は、嘉永七年(1854)、開国交渉に訪
日中であったペリー提督が率いる艦隊のミシシッピ号の
船上で1人の水兵が死亡し、当時、まだ小さな漁村で
あった横浜を一望できるこの丘に埋葬されたことに始ま
りました。その後、相次ぐ尊攘派による外国人殺傷事件
(ロシア艦隊の見習士官モフェト、水兵ソコロフ、生麦事
件のリチャードソン、井土ヶ谷事件のカミュら)などの被
害者や外国人船員の死亡者増加のため、文久元年(1
861)、外国人専用の墓域が定められ、以後、何度か
拡張され、明治初期には現在とほぼ同様の墓域が確
定されました。現在4200人(41カ国)あまりの人々が
眠っています。 |
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山手十番館
1967(昭和42)年、明治100年を記念して建てられ外国
人墓地周辺の景観をひときわエキゾチックにしているビ
ューポイントです。1Fは喫茶店、2Fはレストランで、明
治からの古い伝統的なフランス料理を味わえます。抜
群のロケーションと雰囲気のある洋館で超人気。ここの
周辺は神奈川の景勝50選に選ばれています。
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山手十番館の中庭 |
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山手聖公会
山手聖公会は、1863年(文久3年)、横浜に居留して
いた英米人によって居留地105番(現在の前田橋際)
に、日本初のプロテスタント教会として建設された「クラ
イスト・チャーチ」でした。明治34年(1901)山手の現
在地に移され、尖塔がそびえる赤レンガ造の教会堂が
建てられましたが、関東大震災で倒壊しました。昭和6
年(1931)英国聖公会の援助によって、大谷石の外壁
をもつ現在の教会堂が再建されました。 しかし、この
教会堂も1945年、アメリカ軍の爆撃により屋根を破壊
され、内部を焼失しました。1947年、アメリカ軍とアメリ
カ聖公会の援助を受け、表面に大谷石を貼った石造り
風の外観と鐘塔の重厚な雰囲気に修復され、現在に至
っています。 横浜市認定歴史的建造物
*2005.1.4信者の放火で内部が全焼しました。
幸い外壁などは残ってまして、修復も可能とのこと。
修復には億単位の費用がかかるそうです。
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山手資料館
山手資料館は、明治42年(1909)に本牧1丁目に中
澤邸として、木造2階建の構造で創建されました。2度
の移築を経て、昭和52年(1977)に現在の山手236
番に建ち、民間の資料館として利用されています。
建物は明治期の和洋折衷住宅の洋館部分で、フランス
瓦で葺かれた独特の形をした屋根が特徴的です。
横浜市認定歴史的建造物
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